古代ギリシャ語にプネウマという言葉があります。気息、風、空気、大いなるものの息、ギリシャ哲学では存在の原理の事を言ったり、呼吸、生命、命の呼吸、力、エネルギー、聖なる呼吸、聖なる権力、精神、超自然的な存在、善の天使、悪魔、精霊などを意味する事もあるそうです。
キリスト教でも使われ、日本では「聖霊」が充てられます
(ウイキペディアより)
風のような、そんなイメージですね。
そういうものが世界に満ちてるというのが、キリスト教的というか、古典のギリシャ哲学的世界観なんだそうです。
じゃあ、そういうのが、東洋に無いか? と言ったらそうではなくて、インド哲学から生まれた空の思想や、中国の道(タオ)、日本の八百万の神なんていうのも、風のイメージとは違いますが、世界に満ちてる何かが、あるって言います。
ある生物学者さんは、
宇宙は生命に満ちている。
と言いました。
多分同じ感覚ですね。
ある心理学者さんは、タンポポを見ると
「あんたは今タンポポやってるのかい? 私は今人間やってるよ」
とタンポポと話をしていたそうです。
これもね、同じ感覚だと思います。
そういう、いのちに充満した世界に私たちはいるんだと思います。
だから、私は最近指導に不安がありません。
通底した、同じいのちじゃないか。
という感覚なのです。
だから、最近は運命も、宿命もどうでも良いと思っています。
生きて今あれば良いんだと思うのです。
「人生というのは結局は自分の選択である。一方で、もし運命というものがあるとすれば、結果は決まってしまっていることになる。その場合、果たして『選択』という行為は自由意志と言えるのだろうか?」という問いは過去多くの哲学者、宗教家によってなされてきました。
ですが運命論を考えるなら、誰のいつの運命で、その「自分」というものをどう考えるか、その点から始めないと、絶対に決着はつきません。
一般的な運命論の決定的な落ち度、迷宮の入り口はそこにあるのです。その議論なくして運命論は語れない。まして、普遍に広がる自分をも含めたいのちのはずの自分。
そこから切り取った自分こそ自分であるという誤解に基づく、宿命? 運命? それはなんだというのでしょう?
あなたの苦しみは、私の苦しみ、あなたの苦しみは宇宙の苦しみ。
そして喜びも然り。
運命や、宿命の真実はそこにあります。
そういうものを学ぶ稽古をしています。