戦後、いえもしかしたらずーっと

わたし達は「勝つ」という事に縛られて来たのではないかと思います。


生き残らなければならない。

生き残る。

それはある種「勝つ」事ですから、宿命なのかもしれないですが、そこにこだわると人生の全てが勝ち負けに支配されます。


負ける事は悪であり、負ける事は自分にとっても他人にとっても許されない事になってゆく。


身体は勝つために緊張し続け、緊張はやがて様々な精神的偏りと、そこから生じる肉体的不和を呼びます。







ところで、天真体道の稽古では、負け切るという事をいう事があります。


稽古において、「負ける」と言うことを説明すると、「負ける」事の解釈に走る人が多いものです。


こういうことは、あまり意味のある事ではありません。

いわく

力を抜くことが負ける事

お腹を天の方に開く事が負ける事

相手の力のままになる事が負ける事

などなど、


これらは「負ける」という事に対する現象面での表出に過ぎません。


「負ける」ということを学ぶのに

力を抜くこと

お腹を天の方に開く事

相手の力のままになる事

をするのに、


その「解釈」をし続ける限り、世界は他者であり続けます。


そして「負ける」という事が無いため、何か不具合が生じていたとするなら、その不具合は永遠に続くか、さもなければいったん現象が収まったかのように見えても、別な形で現れる事でしょう。


ましてや「負けてあげる」などという、上から目線で捉えたなら、それは所詮勝負という価値観から逃れられない、蟻地獄に堕ちていきます。


「負けるという心」が大事だと思います。私は「負ける意識」とは書きたくありません。

意識という言葉には、「意識する」という心理上のテクニカルな意味合いを含むと、私は感じるからです。


「ああ、自分は何と無力なのだ!」と天を仰ぎ、自らを見つめること、無力感の中に漂い生きること、今まで持ち続けた過剰な自信、自己顕示欲これらを放棄する事が


私たちが、真に天地と、世界の人々と一体となって、普遍に広がる命の輝きを感じ、また輝いて生きるのには必要なのではないかと思います。また真に向上をするのに必要なのではないかと思います。


私は、滝行を行いますが。

滝に向かう時は、自分の中には恐れでいっぱいですし、滝に入った瞬間からしばらくは自分の無力さをひたすら感じます。


滝の中では、本当に自分が無力である事を自覚した時、えも言われない力が湧き、身体が大きくなった様に感じるものです。


逆に、自信満々の滝行は、終わってからも力みが抜けず、後に学ぶべきものもありません。


そしてそうやって、「負ける」稽古をして来た人の、死生観というか、死に向かう態度というのはなにかが違います。


「郡上にて 踊り狂って 死ぬもよし」

「死ぬもよし生きるもよし」

「死ぬも一定生きるも一定」


こういうのが何とも重要なんだと思います。