市に隠れる 無用庵茶話0722 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

日々無為自然の生き方で、道の実践に明け暮れる気功家のトリです(だからといって、何かすごい技ができるわけでもありません)。

 

街を歩いていると、縦横無尽に人波が押し寄せてくる。

その半数以上は、よそ見をしていたり、下を向いていたり、スマホを眺めていたりして、危険極まりない。

そして、ほとんどの人が、無防備に歩いている。

たまに、群衆が次々に通り魔に襲われるという事件があり、どうしてもっと早く気付かないんだろうと訝しく思っていたが、そういう按配だからやられてしまうのだなと、最近納得がいった。

 

こういう都会にいやけがさし、田舎に引っ越すことが流行っているという。

しかし、農業とか地場産業とか伝統工芸などの職業に就くのではなく、リモートで都会の会社の仕事をしている人も多いらしい。

自分だけ空気のいいところに住んで、都会生活の恩恵にはちゃっかりあやかろうという、実にせこい奴らである。

 

などと、文句を言っている場合ではない。

ここで言いたいのは、都会と田舎とでは、どちらが道(タオ)の実践に有利なのか、ということである。

一見、自然豊かな土地に暮らすほうが、タオに触れやすいと思われるかもしれない。

 

『タオ 老子』(ちくま文庫)などの著作がある英文学者の加島祥造さんは、東京から長野に引っ越して「伊那谷の老子」と呼ばれていた。

このように、山中に居を定め、行風清月を友とする仙人のような暮らしぶりが、タオイストの理想であると思われている。

しかし、故人を悪く言うつもりはないが、加島先生は、実際には、家族を捨てて女と伊那にしけ込んだのであり、タオの修行のために山中を選んだわけではなかったらしい。

 

また、修行ということならば、都会にいる方が理想的であるというのが、宋代以来の中国の伝統とも合致する。

「小隠は山に隠れ、大隠は市に隠れる」(白楽天「中隠」詩参照。文言は少し変えてあります)

といわれ、街中にいたほうが、タオの実践には向いているというのである。

 

どういうことか、トリの見解はこうだ。

街中にいると、いろいろ煩雑なことが多い。

先ほども書いたように、街を歩くだけで、群衆が押し寄せてきて、まっすぐ歩かせてもらえないし、思わぬ危険は街中の方が山中よりも多い。

 

そういうとき、よほど心が静まっていないと、事故に遭う危険性が高くなる。

あるいは、迷惑をこうむる可能性が高いので、心中穏やかでいられないことが多くなる。

こうしたときに、自己を律し、他者を許し、タオとつながる理想的な修行ができるんである。

 

山の中のポツンと一軒家にいたのでは、こういうことはできない。

せせこましくもあわただしい街の生活の中で、心に余裕ができ、心が広くなった時、タオへの経路が開くのだ。

 

ストレスが多いことは、良いことではないかもしれないが、陰陽のメタファーでいうならば、それは「陰」であり、陰であればその裏には、同じだけの「陽」を蔵している。

ストレスが多いことは良いことではない、と同時に、良いことである、という側面が必ずある。

『易経』の繋辞伝に「一陰一陽、これを道という」とあり、そのどちらをも完備しているのが、タオである。

 

誤解されては困るが、逆に田舎ではタオとの経路が断たれている、ということではない。

どこにいても差し支えはないのだが、都会にいたら不利だという印象が強いので、こういう風に言っただけである。

常に、物事の両面を把握しながら生きていたいものだ。

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※昼寝の利点を挙げればきりがない。