勇気について 無用庵茶話0708 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

武芸百般を極めた、天才武術家のトリです(他人との比較においてそう言っているわけではありませんので、試合など申し込まないでください)。

 

中国拳法に、こういう格言がある。

「一・胆、二・力、三・功夫」(「功夫」は「ゴンフゥ」もしくは「クンフー」と読んでください)

実戦において一番重要なのが「胆=勇気、気迫」であり、その次が「力=実力」、そして「功夫=稽古の経験値」だというのである。

 

胆、気迫が大事だというのは、空手や柔道を少しばかりたしなんでいても、相手が死ぬ気で向かってきたら、やられてしまうかもしれないからである。

しかし、そういう「勇気」は、本物の勇気ではない。

 

老子は、このように言っている。

 

第六十七章

「天下皆な我を大なりと謂ふ。大にして不肖なりと。夫れ唯だ不肖なるが故に能く大なり。若し肖なれば久しいかな其の細なるや。我恒(つね)に三宝有り、持してこれを宝とす。一に曰く慈。二に曰く倹。三に曰く敢て天下の先と為らず。夫れ慈なるが故に能く勇なり。倹なるが故に能く広なり。敢て天下の先と為らざるが故に、能く事を成す長と為る。今、其の慈を舎(す)てて且に勇ならんとし、其の倹を舎てて且に広ならんとし、其の後を舎てて且に先ならんとすれば、則ち死せん。夫れ慈を以て戦はば則ち勝たん。以て守らば則ち固からん。天将にこれを建てんとすれば、慈を以てこれを垣(まも)るが如し。」

 

(トリ頭訳)

「天下の人は、みな私の偉大さを、とてもそんなふうには見えない、と思っている。とてもそんなふうには見えないからこそ、偉大なのに。もしふつうの賢者だったら、とっくに先細りしているだろう。私には三つの宝がある。一つめは「慈しみ」二つめは「倹約」三つめは「あえて人の先頭に立たないこと」である。慈しみの心があるから、勇敢でいられるのだ。倹約するから、いざという時に気前よくなれる。あえて人の先頭に立たないから、事を成し遂げるリーダーとも成れる。仮に、慈しみを捨てて勇敢であろうとし、倹約をやめて気前よくしようとし、人を押しのけて先頭に立とうとしてご覧。即死だよ。慈しみを持っていれば、戦っても必ず勝てるし、守れば堅固だ。天が慈しみのバリアを張って守ってくれているかのようだ。」

 

解説の必要もないと思うが、常にそうであるように、老子は「勇気を持ちたければ、慈悲の心を育てろ」と言っているわけではない。

老子が実際に宝として所持しているのは、「慈悲」であり「倹約」であり「人の後ろにいること」なのである。

多くの人が、この後に続く「故に(だからこそ)」にだまくらかされて、「勇気を持つための慈悲」だと勘違いしてしまう。

 

老子はそんなことは一言も言っていない。

言っているのは、「世間の皆さんは、「勇気が大事」「広く施すのが大事」「率先するリーダーになりたい」ということばかり考えているが、慈悲の心があるからこそ、勇気を持てるのであり、倹約しているから施せるのであり、人を押しのけようとしないから信頼されるということなんだ」ということである。

 

もっといえば、慈悲の心さえあれば、勇気などいらないのであり、倹約の実践があれば生きるのには十分であり、リーダーになりたがらなくても、事は自然に運ぶのだ。

それが「道に則った生き方」というものだろう。

そのことを老子は「天が慈しみのバリアを張ってくれている」と、表現している。

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※あとは天に任せて昼寝をします。