形而上学入門 その① 無用庵茶話0219 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

プラトン及びプロティノスを研究する、形而上学者のトリです(言うなれば「絵に描いた餅」の研究です)。

 

昔、大学生だったころ、ある先生が「文化遺産学」という学問を提唱したことがある。

それは「何が文化遺産であるか」を研究する学問だということであった。

それに対して、「何が文化遺産か」ではなく「文化遺産とは何であるか」を問題にすべきではないか、といちゃもんをつけた覚えがある。

教授のスキを突く、見事な議論であると自画自賛していた。

 

そして後年、あるところで染織を習うことになった。

その学校では、普通に染めと織りを習うだけでなく、文化講演会のような時間があり、KO大学出身のいけ好かない評論家が、講師として呼ばれた。

その講演で彼は、したり顔で「何を織るかではなく、織りとは何であるかを考えなさい」と言ったのである。

 

この時、自分がかつて、いかに若気の至りのつまらない野郎であったかを痛感した。

染織をする人間は、「何を織るか」を考えればいいのであって、「織りとは何であるか」のような、バカでかい問いを立てる必要なんてないはずだ。

と、憤慨したものだ。

文化遺産だって、「何が文化遺産か」がわかれば、事足りるのだ。

そもそも、「○○とは何か」という問い自体が、形而上学的(メタフィジック)な問いであり、織物という現物を作るうえで、全く必要のない頭の使い方である。

 

形而上学は、イデアとか神とか、何かそういうものを考える学問であると思っていたのである。

だから、実際的な分野には、形而上学は必要ない、むしろ有害だと考えていた。

せっせと染めたり織ったりしているときに、「染めとは何であるか、織りとは何であるか考えよ」なんて言われたら、腹が立つ。

 

しかし最近、『淮南子』に、こういうことが書かれていることを発見した。

「深遠な道をのべながら現実のことをいわなければ、世俗とともに生活することができず、現実の事ばかりいって深遠な道を語らなければ、自然とともに遊び息うことができない。」(金谷治訳。同『淮南子の思想』講談社学術文庫、1992年、117頁)

 

金谷先生は、

「この形而上の深遠な道理と形而下の具体的な事象とは、どちらも捨てることのできない重要な要素で、だからこそ、書物を作るものにとってはこの両者をともどもに明らめるのが何よりの仕事だという。」(同書、118頁)

と述べている。

 

というわけで、最終的な結論として、

「何が文化遺産化を考えながら、文化遺産とは何であるかを考える」

「何を織るかを考えながら、織りとは何であるかを省察する」

ことが求められる、ということになる。

 

問題は、そんなめんどくさいこと、誰がするのか、ということだ。

・・・つづく。

※著者近影。