運が良いとか悪いとか 空心齋閑話0405 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

あなたの運気爆上がりをサポートする、超人気占い師のトリです(自分の運気は瀧のように瀑下がりしています)。

 

ある日、書店をうろついていたら、永守重信『運をつかむ』(幻冬舎新書)という本が目についた。

なになに、これを読めば運がつかめるのか。

我ながら情けないが、そう思う時点で、既に運が悪いと自任しているようなものだ。

 

手に取ってみると、「人生は「運」が7割。運気は「努力」で呼び込める!」と書いてある。

ん?

頭の中を「?」がよぎり、本を書棚に戻す。

もう、この時点で意味不明だ。

 

だってそうでしょう。

「人生、運が七割」なら、努力は「三割」で良いはずなのに、その七割の運気を呼び込むために、さらに「努力せよ」と言うんだから。

それに、努力して運気を上げて成功した場合、それは果たして運が良かったからと言えるのかどうか。

 

それなら、「実力も運のうち」というマイケル・サンデルの方がよほど筋が通っている(これも読んでいないが)。

世の中には、よほど努力せずに、幸運だけで成功したいという横着な輩が多いと見えて(←「お前もだ」と言われるかもしれない)、この手の本がたくさん出ている。

中には、守護霊や龍神様にすがって運気を上げようという趣旨のものまである。

 

しかし、やってみると分かるが、他者へ依存した場合、その相手がそっぽをむいた途端、何もできなくなってしまう。

それは「運気」というような、自己の外にあるある種の「環境」でも同じだろう。

ビギナーズラックが長続きしないのはそのためだ。

 

ちなみに、中国の運命学では、「幸運」の明確な定義があるという。

そして、「幸運」と「幸せ」は違うものだというのである(小野十傳『幸運と不運の法則』PHP新書、2006年)。

幸運とは「福禄寿」で、「お金」「出世、名声」「子孫繁栄」である。

その結果家庭崩壊したり、働きすぎて病気になったりしても、「幸運な人」と呼ばれるらしい。

 

爆上がりする運気に乗じて荒稼ぎをし、周囲をどん底に叩き落して、自分自身も体調を崩しても、それは「幸運な人」と呼ばれる。

こういう思想の上に商売を組み立てているのだから、中国人はしたたかである。

とてもマネは出来ない。

 

いつか上がるかもしれない運気のための努力になど、お付き合いしかねる。

という訳で、トリなどは花見をしながら昼寝としゃれこみたい。

花は今咲いており、昼寝も今できるものだから。

 
※花見というから桜かと思わせておいて、コバノミツバツツジ。