分かっていること | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

コーネル大学から教授就任を打診されたトリです(この前、そういう夢を見たんです)。

 

自慢するわけではないが、普段から付き合いのある友人知人には、大学教授(講師、准教授など)が多い。

年賀状のやり取り以上の交際がある相手は、ほぼどこかの大学関係者に限られている、といっても過言ではない。


自慢ではない証拠に、

①トリは、どこの大学とも縁もゆかりもない生活をしている。

②「友人にIT長者が多いが、自分はマクドナルドでアルバイトをしており、誰も金を貸してくれない」という人の場合を考えていただきたい。

 

家に帰ると、猫子が一心不乱にパソコン作業をしていた。

高齢者大学から講演を頼まれ、「戊辰戦争」について一席しゃべらなくてはならないという。

猫子は江戸時代後期の文化史が専門で、これまで戊辰戦争が何年に起きたのかも知らず、鳥羽や伏見に行ったことすらない。

 

このように、多くの大学教授(講師)が、にわか勉強の自転車操業で、何とか講義を切り抜けている(と想像される)。

にもかかわらず、学生には確実な内容理解を求め、厳正な試験を課している。

私など、教えた内容が伝わっておらず、学生がまるきり見当はずれな回答を出して来ても、自分の講義の方が間違っていたかもしれない、と思うだろう。

 

ギリシャ哲学の山川偉也先生は、大学に職を得たとき、恩師の田中美知太郎から手紙で、

「ほんとうに分かっていることだけを教えるように」

と、くぎを刺されたという(『パルメニデス』講談社選書メチエ、2023年参照)。

これをまともに実行しようとすると、多分多くの教授が失職するだろう。

 

失職を免れるためには、こうする他はない。

お茶の水大学名誉教授の土屋賢二先生は、学生に、

「これまで半期かけて講義してきたことは、悪い夢でも見たと思って忘れてくれ」

と言った(週刊文春『ツチヤの口車』参照)。

実にいさぎよく、誠実な態度である。

自分の学問によほどの自信がないと、とてもそうは言いきれない。

 

そもそも学問というのは、常に新しく進展をするものである。

自分が教えたとおりに学生が理解したら、実は間違いだった、という可能性を排除しきれない。

その証拠に今や、「良い国作ろう(1192年)鎌倉幕府」は誤りだと言われている。

今後「何と立派な(710年)平城京」や「啼くよ鶯(794年)平安京」なども変る恐れがある。

 

以前、学界の控室で、数人の先生方が、前に行われた発表の悪口を言い募り、

「彼女はショーペンハウアーが分かっていないんだよ」

と言っていた。

 

じゃあ、お前はショーペンハウアーの何を分っているというのか?

というか、ショーペンハウアーどころか、奥さんのことについてさえ、よく分っていないのではないのか。

そもそも、何をどう理解したら「分かった」ことになるのか、あやふやだ。


ドイツ語(日本語)が読めることと、書かれていることが分かることは、全然別問題である。

その証拠に、ショーペンハウアーの著書(翻訳本)を読んでいただきたい。

そこに書かれた日本語が、まるきり意味不明であることが分かるだろう。

 

その教授の奥さんに尋ねると、こう答えるだろう。

「うちの主人は、私のことなんて、なんも分かってくれない」

 

ショーペンハウアーに尋ねると、こう答えるだろう。

「お前ごときに、俺様の哲学が分かってたまるか」

 

ちなみに、高齢者大学へ通う方々は、猫子の講義などを聴くよりも、「年末時代劇」(『五稜郭』『白虎隊』など)を見た方が良いと思う。


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