都都逸芸術論 火曜漫談1206 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

常に新たなポエジーを求め続ける、詩人のトリです(詩集『ねこ道』『騾馬の耳』『そして齧歯類』などがあります)。

 

某国営放送の朝の連続ドラマ『踊りやがれ』(仮名)に、主人公の幼馴染の男が出て来る。

詩人に憧れて、全国を放浪しながら短歌を詠む、という人物設定である。

で、例によってこれに対していちゃもんがある。

 

詩人になりたくて、定型を嫌い、放浪の人生を選択するというような人物が、なぜ「短歌(和歌)」という定型詩を自己表現の手段に選んでいるのか。

あまりにもありがちじゃないか。

世の中には、もっと斬新な表現手段がたくさんあるというのに。

 

そもそも、現代の「短歌」はあまり気に入らない。

与謝野晶子以来の天才と名高い俵万智の、有名な「この味が良いねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」なんて、散文そのままじゃないか。

そもそも、比べる対象を間違えたんじゃないのかと思ってしまう。

「以来の天才」とか言った奴は、与謝野晶子を読んでいないんじゃないのか?

 

「やは肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君」(晶子)

と、

「「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」(万智)

比べるまでもないと思うのはトリだけだろうか・・・。

 

というわけで、短歌は✖。

トリのお勧めは、ずばり「都都逸」だ。

同じ定型詩でも、語数によって、がらりと印象が変わる。

 

俳句が「五・七・五」

短歌が「五・七・五・七・七」

であるのに対して、

都都逸は「七・七・七・五」

である。

 

以前、評論家の桑原武夫が「俳句は第二芸術だ」と言って物議を醸したが、都都逸はハナから相手にされていなかった。

その後、俳句は立派な芸術だということになったが、都都逸は依然、寄席の大喜利やお茶屋遊びの域を出ていない。

 

品がないと言えば、品がない。

例えば、

「あなや悲しきズボンのおなら、右と左に生き別れ」

とか、

「声はすれども姿は見えず、ほんにおぬしは屁のような」

とか。

 

また、代表的な作品に、

「信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃおぬしの傍が良い」

「お医者様でも草津の湯でも、恋の病はなおりゃせぬ」

などがある。

 

ま、こういうモノばかりだから、バカにされても仕方がないかもしれない。

しかし、新作の、もっとポエジーを効かせた都都逸を作れば、これだって立派な芸術になるんじゃないだろうか。

 

例えば、

「薄日のなかに銀杏色づく、並木の道に降る落葉」

とかね。

あるいは、句またがりを応用しても良い。

「秋雨の降りしきる午後の公園ベンチの下の猫」

などはどうだろうか。

 

まあ、即興でこういう感じ、というレベルに過ぎないが、これから多くの方が「都都逸」を作り出すと、これもまた芸術に格上げになる可能性を秘めていると思う。

「日本都都逸振興会」を立ち上げましょう。

※朝寝昼寝で半日暮し、後はおやつを待つばかり