ダブルバインドシステムエラー 火曜漫談・増刊号 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

花鳥風月を友とする文人の燕雀(円寂)散人こと、トリです(キャッチフレーズは「鴻鵠いずくんぞ燕雀の愉しみを知らんや」です)。

 

俳優の東出某が、山小屋に一人籠り、虫や狐を食べて暮しているのだという。

何があったか知らないが、お気の毒に。

などと喜んでいる場合ではない。

 

彼の発するメッセージは、分かりやすい。

「そっちが社会的に抹殺するつもりなら、先んじて隠遁してやる」

ということだろう。

夏目漱石も「人でなしの国へ行くほかない」と書いていた(『草枕』)。

 

洋の東西を問わず、世間の要求というものは、ダブルバインドにできている。

「個人として自己を確立せよ」

と言いながら、

「社会の規範(ルール)に従え」

というのだ。

 

東出某は、可能な限り自分らしく生き、行動した結果、社会から排斥されたのだ。

これは何も、彼だけに当てはまることではない。

「あるがまま」とか「自分らしく」という価値観がある一方、「社会のルール」というものがあり、それに外れると、場合によっては命を取られる。

多くの人はその辺をうまく誤魔化して生きているが、誤魔化しきれなくなることもしばしばある。

 

頑張ってお勉強をしている受験生には気の毒だが、もうすぐこの世は終わりを告げるだろう。

SDGsなどは、その末期症状のひとつだろう。

だから彼らには、今すぐしたいこと(例えば昼寝)をすべきだと、心からお勧めしたい。

といっても、今更資本主義の矛盾について云々しているのではない。

 

世の中が「ダブルバインドシステム」で回っていることを知らずに、世の中へ出ると痛い目に遭うと言っているのである。

東出某のようになりたくなければ、「社会のルールに従う」というルールには、とりあえず従っておいた方がよさそうだ。

 

だから、もう一方の「個人として確立せよ」という方を無しにすればいいのだ。

そのために打ってつけなのが、仏教である。

何せ「個人はない」と言っているんである。

 

例えば「般若心経」には、

「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」と書いてある。

これを分かりやすく翻訳すると、

「物質(色)とは本当は物質のことではない(空)。だから物質(色)と言われる。空(物質はない)とは、本当は色(物質)があるということである。だから空(物質がない)と言われるのだ。受想行識などの感覚作用も、同様だ」

となる。

 

これを「個人がない」ことに当てはめると、

「個人とは、本当は個人ではない。だから個人と言われる。個人がないとは、本当は個人があるということだ。だから個人がないと言われる。自分という者がいると思っている感覚も、そのようなものである」

となる。

 

個人とは、浜辺に打ち寄せる波が砂地に描く模様のようなもので、実体はない。

私たちは、目を開けて夢を見ている。

次の波が打ち寄せると、浜辺の模様は変わる。

私はいなくなるのだから、私を縛るものもまた、なくなる。

自分らしくありたい、というような妄想がなくなるから、社会がいかなるルールを突きつけても、関係ないんである。

※猫は本当は猫ではない。故に猫と言われる。