おはようございます。
現代において最も斬新な作品を作り続けている、超前衛美術家のトリです(作品は膨大にありますが、バカには見ることができません)。
これまで、人(動物)は幸福であるべきだと思っていた。
少なくとも、自分一人くらい幸せを感じて生きていたいものだと思っていたが、そうでない人が居たんである。
岡本太郎だ。
「ぼくは”幸福反対論者”だ。幸福というのは、自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。だが、人類全体のことを考えてみてほしい。たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。だから、自分が幸福だなんてヤニさがっているのはとてもいやしいことなんだ。・・・ニブい人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。」(『自分の中に毒を持て』青春文庫、1993年、73-74頁)
そこまで言うか、という気がしないでもないが、言っていることはあまりにもまっとうなご意見である。
ちょっと前まで、幸せに暮らしたいなと思っていた自分が、何と不純な野郎だと思えてくるではないか。
岡本太郎の言うことの正当性を、知っている文献に閲するならば、『維摩経』が浮かんでくる。
ここに出てくる維摩居士という人物は、かなり岡本太郎の言っていることに近い言動を取る。
まず、冒頭近くで、維摩居士が病気になったという知らせが、お釈迦さまのもとに届く。
お見舞いに行った菩薩たちが、「どうしたんですか、病気なんて」と聞くと、
「痴より愛あり。則ち我が病生ず。一切衆生病めるを以ての故に、我病む(無知から自己執着が生じ、衆生は病んでいる、そして私も病気になった。衆生が病気だから、私も病気になったのだ)」
と答えている(問疾品)。
つまり、一切衆生が不幸であるから、自分も幸せではいられない、というのである。
悟りを体現しているという維摩居士は、自分と衆生とは切り離して考えることのできないものであるというのである。
文殊菩薩との問答において、「諸仏の解脱とは、一切衆生の心の動きの中に求めるべきである」と答えているのがそれだ。
維摩経の代名詞とも言うべき「不可思議解脱」は、迷える衆生の無明のまっただ中において成就される。
岡本太郎はこう言う。
「独りぼっちでも社会の中の自分であることには変わりはない。その社会は矛盾だらけなのだから、その中に生きる以上は、矛盾の中に自分を徹する以外にないじゃないか。そのために社会に入れられず、不幸な目にあったとしても、それは自分が純粋に生きているから、不幸なんだ。純粋に生きるための不幸こそ、本当の生きがいなのだと覚悟を決めるほかない。」(前掲書、104-105頁)
社会が突きつける、「独立した個人であれ」という要求と「社会に順応しルールに従順であれ」という要求は、ダブルバインドとして、人を束縛する。
しかし、その束縛こそが、解脱と表裏のものとしてある。
岡本太郎の言う「純粋に生きる」とは、そういう束縛や矛盾をさらりとかわして、軽やかに生きることを意味しない。
そうではなく、そこに絡めとられて、もだえ苦しみながら、それでもそういう自分を直視して、自分を押し出そうとする生き方のことだろう。
そういう人は、不思議と軽やかな印象を与えるし、束縛を免れているものである。
疑う人は、太郎を見よ。