Let it be…… 火曜漫談0412 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

先日7枚目のアルバムを発表した、シンガーソングライターのトリです(肩書はスリランカ語で、単語の切り方は「シン・ガーソングラ・イター」です)。

 

ザ・ビートルズに「レット・イット・ビー」という有名な曲がある。

あまりにも有名だから、聴いたことのない人は、多分いないと思う。

タイトルは「あるがまま・なすがまま・そのまんま」というような意味だろう。

仏教の「あるがまま」や老子の「無為自然」を思い浮かべる人もあるかもしれない(私だけ?)。

 

いかにも流れに身を任せて、作為のない状態のようだが、老子のいわゆる「無為・自然」とは少し違う。

老子の「無為」は自分が何もしないことを選択するという、わりと能動的な行為だと勘違いされているが、「無為であろうとする」ことは既に「有為」であるという矛盾が生じる。

これは自分が無為を選ぶのではなく、無為が自分を巻き込むのである。

 

だから、「無為」を「レット・イット・ビー(そのままにしておけ)」と訳すことはできない。

本来能動態ではない「無為」は、命令形の「レット~」にはそぐわないからだ。

(さあ行こう、という時のLet us goは、Let's go shall weとも言う。しかし無為をLet it beと言った時、さらにLet it be will youというと、様子がおかしくなる。)

 

これに関して、ビートルズには何の責任もないが、仏説や『老子』の翻訳で、多くが「レット・イット・ビー」の意味で訳されているのはどうしたことだろうか、と訝り続けている。

数年前、病気で動けない状態になっていたとき『老子』を再読しようと思い立ち、手元にあった翻訳を繙いてみたところ、どうにもしっくりこない気がしてならなかった。

 

原文は漢文で、その文字列の印象が伝えてくる「意味」と、訳された言葉の意味が、どうしても自分の中で折り合わなかった。

無論偉い先生が訳しているのだから、それが完全に間違いではないだろう(むしろ間違っているのはお前だ、と言われそうだ)。

しかし、どの訳を見ても、惜しいところで捉えそこなっているのではないか、という思いがぬぐえなかった。

 

以前、國分功一郎の『中動態の世界』(医学書院、2017)について言及したが、ここで國分が言いたかったことのひとつは、何かを考えるとき、思考のパースペクティブが、今自分の使っている言語システムにからめとられてしまうから気を付けよう、ということだったと思う。

能動態と受動態を対立させる現代の言語では、中動態的な状態を上手く言い表すことが出来ず、そこからの視点が抜けてしまいがちになる、という指摘である。

 

Let it beというとき、そこには非常に能動的な意思の存在を感じさせるものがある。

ジョン・レノンはイギリス人だからそれでも良いが、主体(的能動)を否定する仏教や老子では具合がよろしくない。

禅では「随所に主となる(随所作主)」(臨済録)などと言って、一見主体性の確立を目指しているかに見えるが、これは逆説的な表現で、むしろ「無我」を強調するための方便だろう。

 

老子の「無為」はもう少し簡単で、無為というからには無為である。

それでも、訳すときに「自分が無為であれば」と主語を入れたがる傾向が強く、中には「無が為す」とか無理筋の解釈をする人もある(何かを為すのなら、それは「有」である)。

強いて主語を立てるなら「無為」それ自体が主語で、「無為」という状態の中に、自分が巻き込まれている、という観点からの論述であるとするのが良いと思う。

 

※Let's treat.Treat or treat…