おはようございます。
落語家の秋風亭落雁こと、トリです(無論、万年前座です)。
人気番組『笑点』大喜利の問題に、「こんな○○は嫌だ」というのがある。
「こんな学校は嫌だ」とか「こんな年末は嫌だ」などのお題に、メンバーが面白おかしい例を答えていくというものである。
それを聞いていると、いつも「こんな村嫌だ」を思い出す。
吉幾三の有名な歌「俺(お)ら東京さ行ぐだ」の歌詞である。
「テレビも無ェ、ラジオも無ェ、自動車(くるま)もそんなに走って無ェ……俺らこんな村いやだ~」
という、あれだ。
しかし、テレビもラジオもないような村で「自動車」が少しは走っているというのは、どこか矛盾しているが、今回は歌詞にいちゃもんをつけるのが趣旨ではない。
吉幾三は「こんな村嫌だ」と歌っているが、これを理想とする人もいるのである。
おなじみの老子です。
「老子には政治的な文章が多い」と指摘されているが、一見政治的な発言があっても、それはすべてメタファーだというのがトリの理解である。
老子ははっきり言って「政治」そのものに興味を持っていない。
世の中を良くするためには、リーダーがぼんくらな方が良いというのだから、普通一般の意味での「政治」を含意していないことは明らかである。
『老子』第80章「小国寡民」は、拙訳でお目にかけると、こういう文章である。
「理想の国家像についてお尋ねか。さよう、国土は小さく、国民は少ないのがいいな。千人分の道具でも使い切れないくらいの。民は命を大事にしていて、遠くへは出かけない。車や船といった乗り物があっても、乗るほどの用事もない。鎧や武器があっても、使う時がない。合図のためには、結縄を復活させて使っている。地産地消に徹して、土地の食事に満足し、自分たちの服装を美しいとみなし、土地の風習を楽しみ、自分の家でくつろぐ。隣りの国から見通しがよく、犬や鶏の鳴き声が聞こえるほど近いにもかかわらず、民衆は老いて死ぬまで行き来することはない。まあざっと、そういう国が理想だね。」
これではほとんど「村」である。
人びとが他国と全く行き来しない、ということは、そのうち全員が親戚になってしまうだろう。
こういう不都合について、老子は知ってか知らずか、口を閉ざしているが、そこに老子の「非政治性」が見えてくる。
翻って現代において、今後人口は減り、経済が縮小し、環境危機に怯えながら暮らして行かなくてはならないとしたら、老子の言うような人の暮しの在り方を模索しなくてはならないはずである。
交通や物流にエネルギーを使わず、地産地消で、華美な消費生活を避け、日々穏やかに暮らすことを理想とする。
そうすれば、頭が良いとか悪いとかいうような差別がなくなり、いじめやパワハラ、長時間労働などの問題も解消し、人は人本来の尊厳を取り戻すだろう。
※東京では、たぶん生きていけない人。
