莫問題~モウマンタイ~ | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

日常のトラブル、経済から健康問題まで、よろずお悩み解決のスペシャリスト、トリです(自分は貧乏なうえ不健康です)。

 

大阪大学付属病院で、水道の配管ミスがあり、簡易処理しかしていない井戸水を、約30年にわたって飲料用として使っていたという「問題」が発覚したそうな。

しかし、これの何が問題なのだろう?

病院の当局としては、「配管ミス」はゆゆしき事態かもしれないが、30年も誰も気づかなかったようなことが、はたして「問題」と言えるのだろうか。

その間、どれほどの患者や病院関係者がその水を飲んだか知らないが、30年である。

その井戸水は、事実上「安全な水」だったといえる。

 

完全に処理するために、消毒し、カルキなどをぶち込んで、水の力をそがなかった分、その井戸水は、むしろ健康的な水だったのではないか。

この頃、どこへ行っても手指の消毒をさせるものだから、常在菌がなくなるとか言って、過度な消毒を危ぶむ声も聞かれる。

あまりにも殺菌文化が行き届くと、逆に病気が増えそうである。

 

井戸水に含まれる菌が健康被害をもたらすため、完全処理しない水は飲料用には向かない、という理屈から、件の井戸水問題は出てきているのだろうが、そういう発想だと、身体の能力を限定し、病気への抵抗力を失わせるような気がしてならない。

無論、不潔な環境が良い訳はないが、30年間も無事だった井戸水を「配管ミス」と断定するのはどうなんだろうと思う。

 

完全に滅菌消毒された水より、井戸水の方が地球の温かみを感じられるような気がする。

そういえば、昔は我が家にも井戸があり、親戚の叔父さんがよく水を汲みに来ていた。

その家のおばあちゃんがうちの祖父の姉で、生まれ育った家の井戸水が飲みたいと言うからだった。

 

その井戸も、市役所の指導で、今は使えなくなってしまった。

「自然との共生」などというスローガンが、今でもどこかで叫ばれているようだが、井戸を使えなくして、水道水を殺菌するような文化の、どこに「共生」的な要素があるのか、理解できない。

少なくとも、菌との共生を拒んでいる時点で、幾分か「自然」を損なっている。

 

また、「自然との共生」といったとき、何を「自然」としているのか、よく分からない。

菌や虫は殺すし、野生動物も人や作物などに被害をもたらす場合は「害獣」となる。

こういう「基準」をそのままにしておいて、どうやって「共生」をはかるというのだろうか。

 

どうも、世間で「問題だ」と思われている点に問題はなく、見過ごされているところに本当の問題があるような気がしてならない。

先日も、ニュースで、バス事故で息子さんを亡くした方が登場し、「社会を変えたい」と言われていた。

運転手が無理な運転をさせられて事故に至ったが、経営者や当時の責任者は無罪を主張しているという。

 

こういう事態に際して、被害者のお父さんは、「社会を変えたい」というのだが、申し訳ないが、単に「いい加減な会社の経営者に、責任を取らせる社会」にしたいと言っているようにしか聞こえなかった。

その人は、ただ責任者を断罪したいのか、それとも同じ被害者を出したくないのか、どちらなのか。

 

ここのところを取り外したまま、やみくもに「社会を変えたい」といっても、ただの責任追及になってしまう。

第二第三の同じ被害を出さないために、社会を変えたいというのであれば、その問題を起こした会社が依拠していた価値観を洗い直し、そこを変化させる必要がある。

「技量の不足した運転手が、無理な運転をさせられない社会」とは、すなわち「金を儲けることが良いことだと思われない社会」のことである。

 

しかし一方で、今ある社会が今のようであるからといって、何の問題があるというのか、という気がしないでもない。

この状況を変えるために争わなくてはならないのだとしたら、単に戦闘したいがために問題を設定しているだけ、ということになりかねない。

 

※夫れ唯だ争わず、故に天下能く之と争う莫し(『老子』第22章)。