想像力のパラドックス | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

森羅万象神社仏閣あらゆる宇宙の法則に通暁した、特殊霊能者のトリです(「霊能者」は「零能者」の誤記でした)。

 

見えないものを見る力が大事、と言われる。

世の中には、それと気づかれないように紛れ込んだ真実のようなものがあり、それは表面だけを見ていても気がつかないことが多い。

 

そういう力は何か特殊なものではなく、人間なら誰しも持っている。

ところが、実際に見えないものを見得る人が少ないのは、成長過程において、それを覆い隠してしまうからだろう。

 

その力を発動させるのは、想像力だと思う。

ところが、現代社会にはその想像力を減退させる仕掛けが随所にあり、それが機能しすぎて、現代では基本的な理解力などのリテラシーを侵食し始めているようだ。

大平正芳や中曽根康弘なら口が裂けても言えなかったようなことを、小泉純一郎が言えたのは、国民のリテラシーが下がったせいだろう。

 

政府主導の積極的な愚民政策というものはないが、民間から積極的にアホになりに行っているというのが実情だろうか。

とにかく、あらゆるリテラシーの基礎である想像力を奪う方向に、現代社会は向っている。

 

周りを見渡しても、スマホの画面はどんどんきれいになり、テレビも4K8Kだのといって、どんどん鮮明な画像になっている。

綺麗になればいいというものではなく、不鮮明なものを想像で「補う」必要がなくなると、その部分の力は落ちる。

 

昔は大坂から江戸まで約500キロを歩いて旅したものだ。

それが普通だった。

今は車を運転しても疲れると言い、新幹線もグリーン車でないとリラックスできない、というようになっている。

そもそも、まとめて500キロを歩いたことのある人など、殆どいないだろう。

 

想像力も同様に、昭和50年当時の小学六年生と比べて、今の六年生では格段に落ちるだろう。

スマホを持ち、きれいな絵のアニメを見て、VRゲームを楽しむ彼らに、想像力の入り込む余地は少ない。

 

想像力によって絵の不鮮明さを補い、話の続きを作るという遊びによって構想力が養われ、やがて事柄の向こうにある見えないものを見通す力となるのである。

これはテクノロジーの進歩が、必ずしも幸福に結びつかない例だろう。

子どもにスマホやゲームを与えるのが有害なのは、そういった面での成長を阻害するからだ。

 

・・・・・・。

・・・とまあ、そんなふうに今までは思っていた。

(ここで雲行きが怪しくなる)

 

いや、上に書いたことが完全に間違いだとは思わない。

しかし、現状を作ったのは、「想像力」に養われたはずの世代なのだ。

大人たちは、子どもの頃飽き足りなかった思いや、想像していたことを実現しようとして、今のような技術を作り上げたのだろう。

しかし、現在のものを作った人々に、決定的に欠けていたものがある。

 

それは、「こういうものを子供に与えたら、想像力が阻害されるかもしれない」という想像である。

つまり、現代の諸技術を作った人たちには、根本的な想像力がなかった、もしくは軽視していた、ということになる。

想像力のパラドックスだと思うが、どうでしょうか?

※人には見えないものが見えるらしい。