彼らが伝えたかったこと | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

おはようございます。

全国禁治産者連盟会長のトリです(1999年に法改正が行われたことは知っています)。

 

先日、「ねむの木学園」の主催者で女優の宮城まり子さんが亡くなった。

活動内容については知悉しないが、立派な方だったと思う。


さて、さらにその数日前、某障碍者施設で19人を殺害した植松被告への判決が出た。

死刑である。

現時点で、被告は控訴しないらしい。

この事件は日々のニュースで話題となり、植松被告による「障碍者は生産性がないから、オレ様が殺してやるんだ」という犯行理由発言をめぐって、様々な人が意見を述べている。

 

大きな進歩だと思ったのは、大抵の人が、

「植松の犯行は、有用性だけを評価する価値観が、社会のすみずみまで根付いていることによる」

と考えられるようになったことだろう。

植松が悪い、悪い奴を殺せば、万事OKという論調が無くなっただけでも格段の進歩と言える。

 

しかし、このいちゃもんのトリは、そんなことでは騙されない。

植松被告への死刑判決そのものを問う人がまだ少ないからだ。

死刑をやめろと言っているのではない。

植松君が死刑にされる理由こそ、彼が障碍者を殺していいと言った理由そのものである、というところに説き及んでいなければならない、と言いたいのである。

 

死刑判決の法的な根拠づけは、簡単に言うなら以下の通りであろう。

植松被告は、凶悪な犯罪を犯した。

そういう人間は社会にとって有害である。

つまり、有用性が認められない。

だから死刑だ。

死刑にすることで安全をもたらすから、社会に貢献できる。

 

植松被告曰く。

障碍者は通常の生活が難しい。

そういう人間は社会のお荷物である。

つまり、有用性が認められない。

だから殺す。

殺すことでコストカットできるから、社会貢献になる。

 

みごとに同じではないか。

そこを、「有識者」の皆さんはどうお考えなのだろうか?

 

ところで、もう一つ大事な視点がある。

殺された障碍者の方々はどう考えていたのか、である。

遺族の皆さんは、「大事な家族を失って悲しい」とおっしゃっている。

その気持ちに全く偽りはないだろう。

しかし、いかなる理由があれ、その「大事な家族」を施設に押し込んでいたのは、あなた方である。

 

施設に入れた理由はさまざまだろうが、結局つまるところ「家にいてくれない方が都合がよい」からなのではないか?

施設の方がお世話が行き届き、当人が幸せに暮らせるだろうから、ということはあったとしても、それはご家族の見解であり、障碍者当人が本当にそれを望んでいたかどうかは分からないのだ。


行き届かなくても、本当の家族と一緒に毎日生活することを望んでいた人もいたのではないだろうか。

でも、自分は通常の身体ではないから、一般人のように生活できないから、諦めて施設に入ったという人もいたのではないだろうか。

そういう人は、自分に有用性がないことを痛感していただろう。

そして、社会の見えない圧が、有用性のない人間に冷たいことも、敏感に感じ取っていただろう。

 

そんな人々が、意識されない心の奥底で、

「いっそ殺してくれ」

と叫んでいなかったと、誰が断言できるのか?

その、声なき声を植松被告が受信してしまったとは、考えられないだろうか?

 

植松被告の犯行声明は、植松個人の発言でありながら、実はそうではなかったのではないか。

殺された19人の障碍者たちの心の叫びをも含んだ、20人からの問いかけであったと考えることは出来ないか?

そうなると、もはや問題は植松個人だけのことではなくなる。

殺したものと殺されたものが、同じ状況に苦しみ、同じ問いを発したのである。

そして、19人は殺され、残る一人も消されようとしている。

 

重ねて言うが、死刑をするなと言うのではない。

しかし、殺す前に、あなた方が殺そうとしているのは誰なのか、何故殺さなくてはならないのか、今一度よく考えてもらいたいと願う次第である。

※えー?その理由を忘れてもうたんか?ほなその理由をオレが一緒に考えたげるから。何か特徴言ってみてよ。