歴史解釈と物語的な視点 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

某国国営放送の日曜夕刻の人気動物番組に『チャップリンが来た!』(仮名)がある。

その後の犬河ドラマ『プリンがくる』(仮名)と続けて観る人も多いことだろう。

 

先週の放送では、札幌の公園で子育てをするオシドリが取り上げられていた。

オシドリの雄は子供が生まれた瞬間に雌への興味を失い、どこかへ逐電するので、厳密には「オシドリ夫婦」ではないという。

それはまあいいとして、オシドリのお母さんは一人で子育てをしなくてはならないのである。

 

番組では、春子と名付けられたオシドリが、11羽の赤ちゃんを引き連れて公園から池のある場所へ移動する様子が撮影されていた。

そのとき、天敵のカラスが子どもを狙ってやってくる。

あわやというところでお母さんが捨て身の攻撃で子供を救う、といった映像が映し出された。

しかし、努力空しく子どもの数は徐々に減り、結局成長できたのは半数以下であった。

カラスにやられたのだろう、というのである。

 

こういうとき、カラスの肩を持つ人はあまりいない。

カラスがその日の糧を得て喜んでいるということに、思いを致すことはないのである。

オシドリお母さんがカラスに特攻して追い払うと、胸をなでおろすのだ。

カラスはおとなしく自治体のゴミでも漁っておけ、と言うのだろうか。

しかし、オシドリの赤ちゃんが、大きなミミズを飲み込むところを見て、ご飯にありつけて良かったね、というのである。

ミミズにしてみれば、たまったものではないだらろうに。

なぜ、カラスの幸せや、ミミズの不幸が無視されているのだろうか。

同様の事は、ライオンやトラを主人公にしたドキュメンタリーでも起こる。

ライオンのお母さんが仕留めたばかりのシマウマに、赤ちゃんたちがかぶりつくさまを見て、人は喝采するのだ。

シマウマにしてみれば、たまったものではない。

 

なぜそういうことが起こるのかといえば、ドキュメンタリーが「物語的虚構」(ミュトス)として提示されているからである。

宇宙戦争物の映画を例にしよう。

地球侵略を目論む宇宙人は、それなりの理由があって地球に侵略してくるのだが、迎え撃つ原住民にしてみれば、困った奴らである。

観る側の共感の視点を原住民に設定してあるから、侵入者は悪の権化でしかない。

しかし、これがアメリカに侵入した開拓者である白人の物語(つまり西部劇)の場合、「ホーホー」と叫んで馬に乗り、火矢を射かけて駅馬車を襲う原住民インディアンが悪者だ。

 

実際には、どちらがより悪で、どちらがより善であるという明確な線引きはない。

それがあるように見えるのは、全て虚構としての物語の力である。

それが仮に「史実」と呼ばれるものであっても、その配列や強調の仕方で、ある種の物語となる。

また、ある種の物語でない「歴史記述」というものはあり得ない。

ところが、多くの歴史家は、「史料に基づくていねいな実証は物語とは違う」と思っているのである。

そういうことを素直に信じているから、オシドリの赤ちゃんを狙う悪いカラス、という図式にしてやられるのである。


例えば韓国の「反日史観」は有名だが、これもある種の物語なのである。

「反日」ということは、二元的対立の一方に日本を、一方に韓国を並び立たせていると言えるわけで(対立は、また並立でもある)、日本に依存した歴史認識であり、歴史解釈である。

そして歴史も自然界において、カラスだけが悪いのではなく、オシドリだけが善なのでもないように、日本だけが100パーセント悪く、韓国に一ミリも罪はない、というのは幻想である。

韓国が、本気で独立した一国の歴史を書こうと思うのなら、反日という物語の枠を出て、つまり日本を対立項の一方に据えることで依存するのをやめ、相待的な視点に立って相対的な歴史を書くべきである。

 

韓国に限らず、多くの歴史家が歴史理論に無自覚なあまり、同様の間違いを犯していると思われる。

ヘイドン・ホワイト先生(故人)の言うように、自分の書きつつあるものが「物語的な構築物である」(『言述の比喩法』)という自覚を持つことが必要だろう。

そのために、まずはオシドリの赤ちゃんを狙うカラスに感情移入する練習をしてみてはどうだろうか。

カラスにも赤ちゃんはいるのだし、今日の晩餐を美味しくいただきたいと思っている点においては、人間と変わりないものである。

黒いからとか、ゴミを漁るからとか、かわいくないからとか、いろいろな理由をつけてカラスを嫌う練習ばかりしていると、いつしか皇国史観のようなものが作り上げられたとき、相待的=相対的な視点を持ち得ず、その言述の罠にはまってしまうことになりかねないのだ。

※囚われの身になったのは、ナマケていたせいばかりとは言えない。