似而非(エセー)学者 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

友人の暇中先生の学生さんが、モンテーニュで論文を書くという。
題材は、モンテーニュの社会的活動だそうな。
確かに、『エセー』でおなじみのミシェル・ド・モンテーニュ殿は、ただの浮かれた文人ではない。
司法関係の要職を歴任し、王室の侍従武官に任命されたり、ボルドー市長もつとめるなどしている。
このような人だから、その社会的活動にしぼって資料を読めば、何かを言えるかもしれない。
しかし、何か面白くなくないか?

暇中先生に、宮下志朗さんの『モンテーニュ』を勧められたので遅まきながら読んでいるが、そこで魅力的なテーマを発見した。
題して「モンテーニュ殿はなぜ国王アンリ4世の招きに応じなかったのか」である。

トリの仮説は以下の通りだ。
モンテーニュ殿は、三人アンリと言われた三人のうち、ギーズ公とアンリ3世には近付き、割を食ってバスチーユに投獄されるなどの危険な目にあいながらもある種の忠義を尽くしてきた。
しかし、アンリ4世からの招きには、体調不良などを理由に応じなかったのだ。
ところで、アンリ4世は無類の風呂嫌いだった。妃のマルグリットさんが毎夜入浴してジャスマン香油を塗るほどのきれい好きだったため、夫婦関係は最悪で、冷え切っており、あちこちに愛人をこしらえていたらしい。
一方のモンテーニュ殿は愛妻家である。
また、腎臓結石のせいもあるが、温泉評論家と言えるほどの温泉通であり、当然きれい好きだ。
モンテーニュ殿が招きを断ったのは、浮気もので寄ると臭い王様の側に行きたくなかったからだろう。

ざっとこのような推論が成り立つ。
人を裁くことが嫌いなモンテーニュが嫌々関わった裁判記録を調べたり、お付き合いでやらされたボルドー市長としての実績を調べても、歴史学に何かを付け加えることは難しいのではないか。
そこで、トリのモンテーニュ試論を提示してみた次第である。
暇中ゼミの辰巳くん(仮名)の参考になれば幸いだ。
もしくは、「『エセー』の1595年版を編集したグルネー嬢は、ファザコンだったのか?」問題について調べてもらいたい。
※アンリ4世の肖像。