前回、尻切れトンボに終わっていた。

 なぜ、「時が二人を追い越してゆく」は「呼び戻したい」にかからず、呼び戻したいのは「かほりちゃん」なのか。


 理由は簡単で、時と自分というのは密接だからである。生まれて十年経ったが、まだ五歳という人がいたら、それは死んでいるのである。十一月になって三日経ったと思っていたら、すでに十日だったというのはあり得ない話である。

 つまり、「時が二人を追い越す」とは、うわの空で時間を過ごしたということの隠喩なのだ。時間の観念が薄れるくらい、憔悴して日々を過ごしていた、というのがこの歌の主人公の有様だった。


 そのくらい、つらい思いをしている、と。だから何がなんでも(かほりちゃんを)呼び戻したい、とこういう流れとなる。


 それにしても、テキストに沿って文意をくみ取ると、どうしてこうも歌の印象と異なることになるのか。結局現代の歌謡曲の歌詞が、ロジックを放棄してレトリックに走ったということではないか。


 最近全員音大出の歌手で構成された「フォレスタ」というコーラスグループの歌う「日本のうた」という番組をよく見ている。


 そこで、明治から昭和にかけての日本の歌が流れるのだが、古ければ古いほど、樫のロジックの密度が高いことが分かった。たとえば「荒城の月」と「古城」を比べてみると、前者がすべて情景描写で成り立っているのに対して、後者には情緒的な感想が挿入される。


 「かなしい」とか「わびしい」というような言葉を使うと、情感を表しやすいが、説明に流れてしまう。描写を放棄して、内面を押し出そうとすればするほど、ロジックは後退し、正確な意味を取りにくくなる。


 情感豊かなメロディーに乗せて、情緒的だが意味不明瞭な歌詞を歌うのが、近年の歌謡曲の有様である。西条八十や北原白秋、佐藤惣之助のような詩人が余技にとはいえ書いていたころの歌謡曲がぼくは好きである。


 あの、昭和二十年代までの頃のような歌謡界を呼び戻せるなら、ぼくはとてもうれしいのだが・・・。