道で人にぶつかるとき | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

 地元から大学進学のため関西に出てきて以来、ずっとテレビを持っておらず、変人扱いされながらその生活に不自由を感じていなかったが、昨年故あってテレビを買った。


 テレビと言うのは、以前「一億総白痴化」とか、「百害あって一利なし」等と言われていたように、見ない方がいいものかも知れない。しかし、うちに置いてあるとどうしても見てしまう。


 それでも、必ず見るという番組は少ないけれど、NHKの朝の連続テレビ小説はなんとなく見てしまう。昔、小学生のころ、祖父がテレビの前から祖母に「始まるでよ」と声をかけ、自分もその声につられて見ていた記憶がある。

 「おしん」とか「跳ねこんま」とか、「ちょっちゃん」「心はいつもラムネ色」などというのもあった。どれも内容はあまり覚えていないが、大体明治から戦後くらいまでの時代設定が多かったのではないか。


 今やっている「純と愛」は、なんだか月曜九時のドラマのようで、自分の中の連続テレビ小説像と一致しないが、見ているうちに面白くなってきた。純という行動だけが先走って周囲を巻き込み騒動を起こすタイプの女の子と、愛と書いて「いとし」と読む、人の本性が見えるという、根暗な男の子が主人公である。(しかし、ぼくにとって「いとし」というと、次は「こいし」と言いたくなる)


 愛君は、頭脳明晰で運動神経も良く、家事全般をこなし、人の心まで読めるという超能力者だが、人の本性が見えて気持ちが悪くなるため、いつも俯いて過ごしている。そして、道を歩くと必ず人に突き当たるのである。・・・長い前ふりでしたが、ここから本題です。


 しかし、それはなぜだろうか。俯いて歩いているのは、愛君だけで、他の人は前を向いているはずではないか。俯いている人がいたら、前を向いている方が避ければよさそうな気がする。しかし、実際にぶつかってしまうのである。


 ぼくも街を歩いていて、ちょっとよそ見をするとすぐに誰かと接触しそうになる。それがずっと疑問だったが、観察していてわかったのは、前を向いているように見える人も、ちゃんと前を向いていないということである。何かに気を取られて歩いている。


 だから、お互いに気が付き、お互いに避けるというシチュエーションでなければ、突き当たってしまうのである。また、「お前が避けろ」とばかりに歩いている人も多いのではないか。そういう人は、ギリギリまで避けようとしないので、こちらがよそ見をしていると、やはり突き当たる。


 街を歩くときには、進行方向に氣を向けて、いつでも避けられるような準備をしながら歩かなくてはならない。それでもたまにニアミスがあるので、歩くだけでも非常に良いトレーニングになると思う。