おはようございます。

学士院賞を受賞し、未来のノーベル賞候補として名高い、天才研究者のトリです(授業や会議中などに、目を開けたまま眠ることのできる装置を、開発しています)。


AI全盛期を迎えようとしている昨今、自分の頭で考えることの重要性が、再びクローズアップされているのではないだろうか。

AIの出現によって、学ぶということの本質まで、変化させてはならないと思う。


孔子は「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」と言った(『論語』為政)。

この「思う」を金谷治は「考える」と訳し(岩波文庫)、宮崎市定は「思索・考案」と訳している(『論語の新研究』岩波書店)。

いずれにしても、教えを学び、自ら考えることが大切だというのである。

 

その対極に位置する「無用の用」ということばがある。

今年のノーベル化学賞を受賞された北川進先生が、講演で言及したので、テレビや新聞でもよく見かける時期があった。

一見何の価値もなく、使えなさそうなものにも、発想の転換により使い道がある、という意味として話されていたと思う。

 

「無用の用」自体は、道家のことばであるが、北川先生の解釈は、どちらかといえば、孔子の流れをくむことが分かる。

思うことと学ぶことを同時に行い、発想を柔軟にして、無用と思われるものの中にも、有用性を見出していくという姿勢は、世の研究者の手本となるだろう。

どこにもスキのない研究態度であり、超一流の研究者はやはり違う。

 

一方で、老子は「学を絶てば憂いなし」と言った(第二十章)。

学ぶことも、思うことも必要ないというのである。

老子は、ただやみくもに学問に対するアンチテーゼをぶっ放しているわけではなく、学ぶという行為に付随する、根源的な脆弱性を指摘しているのである。

 

それは、有用なものを目指したいというところに表れる。

有用性に価値を置いた時点で、その行為や思索は「中庸」でなくなり、価値を追い求めてしまう。

だから、北川先生のいう「無用の用」は、使い方自体が間違っていることになる。

研究されていた「MOF」が本当に何の使い道もなかった場合、ノーベル賞どころか、研究室からも追い出されていただろう。

 

なぜなら、実際には、「無用の用」はそういう意味ではないからだ。

北川先生の使い方だと、「無用の用」は「バカと鋏は使いよう」と同じことになる。

出典は『荘子』だが、荘子が「無用の用」というときの「無用」は、徹底的に何の役にも立たず、従って、どう発想を転換しようとも、利用価値など生まれないことを前提としている。

 

じゃあ、何が「用」なのかといえば、生きて生命を全うすることが出来ることを、荘子は「用」と呼んでいる。

荘子が「無用の用」の例として挙げているのは、大きすぎて使えないヒョウタンとか、曲がりくねって材木にならない大木とか、その類のものである。

北川先生の発想では、材木にならないのなら、細かくしてウッドチップやつまようじの材料にしようとか、そういうことになるかもしれない。

 

そういうものに加工する気も起らないような、度外れた無用さを、荘子は好んでいた。

荘子は、「使える/使えない」という二元的な対立ではなく、「使えないものには意味がない」という形で現れる、意味偏重の思考を笑っているのだ。

学問を好む人の、致命的な脆弱性は、無意識に自己の周囲を意味で満たしたくなることにある。

 

老子(荘子も)は、そこを指摘しているのである。

老子はこう言う(七十一章)。

 

「知不知、尚矣。不知不知、病矣。是以聖人之不病也、以其病病也、是以不病。」

 

「自分が何も知らないことを分かっている人は、最もよい。

知らないということに気づいていないのを病という。

道の達人が病でないのは、それが病だと認識できているからだ。

分かっているから病に陥らない。」

 

自分が意味に捉われ、有用性の沼に溺れかけていることに、気づいている人はどれだけいるだろうか。

そこから抜け出すには、「学を絶」ち、無用の領域に足を踏み入れなくてはならない。

そこにある「無意味」の中にやすらうとき、憂いはほどけ、根源へと向かう道筋が、はっきりと見えてくるのではないだろうか。

image

※荘子なきあと、現代の「ミスター無用」は私だ。