宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

幅広い分野にわたって日本文化を考察している、文化人のトリです(石田純一の言葉を借りるなら、「昼寝から始まる文化もある」つまり、「昼寝は文化だ」となります)。

 

少し前にやっていた、宮藤官九郎脚本の夜の連続ドラマ『新宿野戦病院』を見ていると、これまた先日終了したNHKの朝の連続テレビ小説『虎に翼』に登場する俳優が続々と出演していて、この二つのドラマしか見ていなかったら、日本にはこれだけしか俳優がいないじゃんないのかと思ってしまうだろう。

たしかに売れっ子は限られていて、どこのチャンネルを回しても(この言い回しはすでに古い。令和の人には「回す」が通じないかもしれない)、同じ顔ばかり登場するから、この二つのドラマに限ったことではないのかもしれない。

 

「葦の髄から天井覗く」という俚諺がある。

難しく言えば「管見」である。

論文を書くとき、「○○についての研究は、管見の限りこれだけしかない」というような言い回しを多用する。

 

自分が知っているのはこれだけです、という意味だ。

どんなに大量の資料を網羅し博覧していても、「私の視野は狭いんですよ」と、謙遜してそういうのである。

 

謙遜ならよいが、謙遜ではなく、実際に視野が狭い場合も多い。

そういうとき、「盲点がある」という。

かくいう私も、親譲りの?盲点だらけで、小供の頃から損ばかりしている。

 

「盲点」というくらいだから、それ自体は自分には見えない。

盲点は、それが何らかの拍子に外れたとき、はじめて盲点だったとわかる仕組みになっている。

 

紙に黒い丸が二つ印刷されていて、その片方に焦点を合わせると、もう片方が見えなくなるという実験をご存じの方もあろう。

片方の黒丸が見えないとき、それが「盲点」であるとは気がつかない。

視点を変えて、紙全体を眺めたとき、はじめて盲点であったことが分かる。

 

日常生活において、「盲点」は多数潜んでいる。

たとえば、「~しなくてはならない」という思い込みの中に、その多くが存在すると思う。

いつも「時間がない、時間がない」と言っている人が、スマホゲームやSNSに数時間費やしているとか、「寝る暇がない」と言っている人が、遅くまで仕事をして、その後から飲み始めるという生活を送っていたりとか。

 

「SNSを見なくてはならない」とか「仕事の後はストレス緩和のために飲まなくてはならない」とか、そういうのが「盲点」である。

もっといえば、「仕事をしなくてはならない」とか「時間が十分なくてはならない」ということそれ自体が「盲点」かもしれないのだ。

直ちに仕事を減らすかやめるかし、時間があったらしたいことは何なのかを精査したなら、それらが思ったほど大したことではないと気がつくだろう。

 

そして、盲点のなくなったクリアな視野で自己を見つめ直してみると、生きるためにしなくてはならないと思っていたことの大半が、実際にはさして必要のないことだった、ということが分かるだろう。

そういう、研ぎ澄まされた感性になって、はじめて昼寝が楽しめるというものだ。

image

※よく考えると、今昼寝しなくてはならない理由もない。