白坂です、

 

絶望のち希望
 

 

希望は絶望の後に自ずと見えてくるものです。

それは、まさに真夜中の後に朝が訪れるのと同じような感じです。

 

もし絶望を感じないで済むのであれば、誰だって絶望など感じたくありません。

ただ、10年に1回とかで本当に人生が変わる転機があるとしたら、残念ながら絶望を避けることは出来ません。

 

まず、

そもそも、なぜ人生は滅多に変わらないのでしょうか?

それは、

 

【信念が同じ→ 言動が同じ→ 結果が同じ】

 

まず、

人は、何らかを信じながら生きています。

 

・「親から正しいと教えられたこと」

・「教師から正しいと教えられたこと」

・「自分の人生体験から正しいと考えたこと」、、、

 

・道徳

・宗教

・周囲の人の意見、、、

 

信念が「価値観の優先順位」を決めています。

「誰を優先するのか?」「何を優先するのか?」

「何をするのか?」「何をしないのか?」、、、を決めています。

 

信念が同じということは優先順位が同じ、ということ。

だから、本人は本人なりに、その都度で考えながら判断しているように見えて、結局、同じ価値観・同じ優先順に基づいて判断し続けている。

 

当然、その人の言動も同じです。

だから、当たり前に結果も同じ。

 

もし変わるとしたら、

1番表面的には言動を変える必要がありますが、言動は信念に基づいているので、実際には変わりません。人は、これまで自分が正しいと信じたものを、これからも正しいと信じ続けながら生きたい存在。

 

信念を変えるということは、過去の自分の人生の否定を意味しますので、人は信念を変えない。同じ信念を持ち続けることで、過去の人生を肯定し続けながら、これからも生きていく。だから、

 

【信念が同じ→ 言動が同じ→ 結果が同じ】

 

今まで得ていた結果と同じような結果を望み続ける場合、むしろ大きな問題は起こりません。もちろん絶望を感じることもありません。ただ、時間とともに緩やかに・緩やかに、しかし、着実に衰退し続けていくのみ。

 

逆に、

今まで得ていた結果と全く違う結果を望み始めた場合、大きな問題が起こります。全く違う結果を望んだ場合、今まで挑戦したことがない何らか新しいことに挑戦することになりますが、

 

上手く行かない

 

新しいことに挑戦した場合、知識・技能・経験の不足によって、上手く行かない。新しい環境・新しい人間関係に古い信念で対応しても失敗する。

 

・違う結果を求める

・新しい挑戦をする

・失敗する

 

 

そして、

 

 

・新しい挑戦をする

・失敗する

 

 

さらに、

 

 

・新しい挑戦をする

・失敗する

 

やがて

 

 

絶望する

 

 

今までと違う結果を得るために、古い信念を元に考えた手段が悉(ことごと)く上手く行かなかった場合、挫折します。やがて、実現可能性が見えなくなり絶望します。

「もう無理」「もう限界」「万策尽きた」、、、と心が諦めます。その時、初めて、

 

 

今までの信念を手放し始める

 

 

【信念が同じ→ 言動が同じ→ 結果が同じ】

大元中の大元は信念。

 

たとえば、

今までと同じパソコンのままで、スマホ用の新しいアプリが上手く動かないのは当たり前。アプリの問題ではなく、大元のパソコンの問題。

 

下手に可能性が残っている間は、今までと同じパソコンで、何とか・何とか新しいアプリを動かそうとし続けてしまう。しかし、何をやっても、何度やっても上手く行かない。結果好転の可能性があるうちは挑戦できる。しかし、結果好転の可能性が見えなくなった時、

 

 

人は絶望する

 

 

文字通り絶望的に上手く行かないことが続いた時に、ついに気づく。

これは、ちょっとや・そっとの小手先の改善では、どうにもならない、、、と。

 

 

もっと根本の大元が変わる必要がある、と。

 

 

人は、1度、形成した信念を、基本、変えられない。

だから、自分の信念はそのままで、小手先の方法だけを変えて、何とか結果を変えようと試みる。しかし、どれだけ小手先の方法を変え続けても、やっぱり・どうして何とか望む結果を得ようとした時に、

 

 

今までの信念を手放し始める

 

 

絶望は、今までの自分の信念では実現可能性が見えなくなった状態。

人は、自分が重要だと思っていることしか見たり・聞いたりしないので、信念が変わらない間は、気づけることが同じまま。

 

しかし、

いざ、今までの信念を手放し始めると、見えること・聞こえることが変わり始める。対象に対して自分の感じ方も変わり始める。気づきが変わり始める。すると、絶望して1度、見えなくなった実現可能性が再び見え始める。

 

 

【絶望のち希望】

 

 

人生、山あり谷あり。

精神的に1番キツイのは絶望した時よりも、むしろ、絶望に向かって結果が下向きになっている途中。下がっている時は、どこまで下がり続けるか「分からない」という怖さがある。将来が「分からない」という怖さに対して最も助けになるのは、

 

 

【どんなことがあっても絶対に大丈夫】

 

 

という目に見えないものを信じる気持ち。

その目に見えないものが何か。

神様・仏様・宇宙、、、それは信仰の自由。

ただ、宗教やスピリチュアルが本当に助けになる時期があるのは確か。

 

絶望前の方が怖い。

そして、絶望している時はむしろ落ち着いている。

なぜなら、下がるところまで下がり切れば、

 

 

もう失うものがないから

 

 

なぜか落ち着いた心境で、今までの古い信念をゆっくりと手放し始める。

「きっと何とかなる」という、むしろ穏やかな状況で居られる。

そして、信念を手放した後に、少しずつ・少しずつ実現可能性が見え始める。

 

 

【絶望のち希望】

 

 

夢は簡単には叶わないからこそ夢。

ただ、実現不可能な夢は、そもそも描きさえしない。

もし夢を描けたというのであれば、「こういう状況が理想だ」とイメージできたというのであれば、、、たとえ実現は簡単ではなかったとしても、

 

 

必ず叶えられる可能性はある

 

 

本当だったら絶望することなく希望を感じたい。

しかし、人生は、そのようにはなっていない。

人生の法則は、

 

 

【失う→ 空っぽになる→ 新しいものに変わる】

 

 

失うことなく足し続けることは出来ない。

絶望があってこそ、新しい未知への希望が見える。

夜明けの後にこそ朝日が昇る。

 

もし、

人生の下り坂を感じている途上の時は、何の根拠もなく、「絶対に大丈夫」と信じること。神様でも・仏様でも・宇宙でも何でもいい。最も自分がシックリと来る目に見えないものを信じて耐える。時を1日・1日、淡々と経過させる。

 

そして、

もし、下がるところまで下がり、もう失うものが何もなくなったとしたら、、、その時は、潔く、今までの信念をゆっくりと・ゆっくりと手放して良い。過去の自分に執着しない。

 

時代が変わり、環境が変わり、ゴールが変わったならば、古い自分では対応できないのだから。新しい自分でこそ希望を見出せるのだから。

 

絶望を感じられるのは、今までの自分で思いつく限りのことを全てやり切ったからこそ。やることを全てやって選択肢が1度、全部、消えたからこそ感じられるのが絶望。

 

絶望に至るまでの下り坂の時はツライ。

そして身体が震えるくらい怖い。

ただ、

 

絶対に大丈夫

 

大丈夫である理由は要らない。

ただ、盲目的に大丈夫と信じていい。

人生は思い通りにならない。

良い方ではもちろん悪い方でも。

 

人生は必ず何とかなる

 

いざ川に流されたと感じている時は、ジタバタせずに思い切って川の流れに身を任せて流されてみる。下流まで流されてみる。いざ、1番の下流まで流された時に見える景色は、流され始めた時の景色とは違うものが見える。それが、

 

 

絶望の後に見える希望

 

 

1度、心で描くことが出来た夢は、たとえ途中どんなことがあっても最終的には必ず叶えられる。川に流されている間は1日・1日一生懸命すぎて気付けない。しかし、10年単位で人生を見たら必ず分かる。あの時・あの瞬間の絶望、そして、その後に見えた希望があってこそ、

 

 

夢を叶えることが出来た、と。


 

絶望のち希望

今回は以上です。
本日も文章をお読みくださり感謝しています。
いつも本当にありがとうございます。

白坂慎太郎

 

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