117日は、私たち日本人が忘れてはならない日の1


「阪神淡路大震災」発災の日です


28年前のあの日、早朝、取材スタンバイのために早起きした私は

朝迎えのタクシーの運転手さんにまず言われました


「大変なことになりましたね

大阪で震度6ですって」


その瞬間、家に戻り、誰の指示も受けない状況で出張の準備をして家を出ました


震度6!





関東大震災以来の大きな地震だと直感


当時の震度計は6までしかなく

のちに現地調査によって、最大震度は7だったと訂正が入りました



関西地方のどこにも電話がつながらず、情報がないので

デスクは「様子を見よう」と

私に待機を指示しました


しかし

若い私はその指示を無視して

アシスタントディレクターのあすかちゃんに「伊丹空港まで、こっそり4席の飛行機を予約するように」と命じました


それが良かったのか

悪かったのか


関西地方に向かう一番機に乗った東京の取材班は、私たちだけでした


あとは神戸の自宅に戻る人たち、被災者の家族と政府関係者で満席


飛行機に乗り込もうとするときに、空港ロビーのテレビに映し出されたのは

興奮した関西弁で記者がヘリコプターからリポートする、高速道路が倒壊していると言う信じられない光景





それは、東日本大震災で私たちが目撃した津波の瞬間と同じような衝撃でした


「これからあの現場に入るのか」

大変な緊張感で乗り込んだ旅客機


そして

現場に着くのが早すぎました


自衛隊も被災状況を把握していない中

未曾有大災害の現場に私たち取材班が最初に到着してしまったのです


写真は、すべて私たちが目撃した光景です





激しい取材拒否に会うと覚悟しました


が、そんな甘いものではありませんでした





たくさんの住宅が倒壊している古い町並みで、避難すると言うことを知らない住民の皆さんが

私たちを見るやいなや


助けてください


と、すがってきたのです


救急車を呼んでください!

消防車を呼んでください!

ガスを止めてください!


生き埋めになっているおばあちゃんを1階から引っ張り出してください!





私たちはすぐに取材を止めて

話し合いました


救出活動か!

取材活動か!


私が最年長の31

あとは20代のディレクターとカメラマンと音声マン


その結論は


「手伝えない」


私たちは何をしに来たのか?

ここで「人として」生きるならば、半日以上かけて重機もない中、お年寄りを引き出す手伝いをすべきである


しかし、私たちは「伝えるために」来た


日本が経験したことのない大災害を、日本中に世界中にいち早く映像として伝え、救いの手を求めるべきである





私たちは「報道人として」生きる道を選びました


それから三日間は


「ごめんなさい。手伝えません」

「ごめんなさい。この取材テープを届けなければいけません」


謝りながらの取材活動でした


果たして、その判断は正しかったのか?


今でも考えてしまいます



ですから、2日目に、長田区の大火災の現場に到着したとき

私たちは、思わず住民の皆さんの消火活動を手伝いました





その映像がすぐに報道特番で放送されると

東京のデスクから叱られました


「被災地で手伝ってます、なんて言う映像を送ってくるんじゃない!」

「デスクは現場を見てないからそんなことが言えるんです!ここに来れば誰だって手伝いたくなります」


私が強く反論すると


「だったら、カメラマンもカメラを置いて消火活動を手伝え!

お前らは、似非(えせ)ジャーナリストだ」


返す言葉がありませんでした


もうあんな体験をする事はないだろうと思っていたら、16年後に東日本大震災が発生したのです


すでに私は部長職でしたが

若い取材者たちが

困難に陥ってしまうことが目に見えていたので

最初に現場に行くと手をあげました


私が阪神大震災と東日本大震災、2つの現場で発災直後から取材を行っていた珍しい報道人であると言う理由はここにありました


今朝、追悼の現場で代表してお話しされたご遺族の方のメッセージを読んで、胸が熱くなってしまいました


ご遺族代表の言葉です



6434人の犠牲者、一人一人にかけがえのない人生と思い出があったのです


南海トラフ地震は

40年の間に9割の確率で発生すると言われてます





今のお子さんたちが働き盛りの時までに確実に被災すると考えていいと思います


そのために震災授業など

私も積極的に行っています



あの日を忘れないために…




妻、茅原ますみのブログ