5回目の抗がん剤5日間24時間連続投与4日目。

やはり今日から一気に倦怠感が増してきて、かなりしんどくなってきました。

 

しかし、どうしてもブログでお伝えしなければならないことがあります。

長文ですが、よろしくお願いします。

 

明日3月20日(金)で、あの「地下鉄サリン事件」から25年。

とても大きな節目。

忘れてはいけない日・・・。

 

私は、あの日、あの瞬間、

あの現場に立っていたのです。

 

フジテレビより 築地駅前

 

あれは1995年3月20日朝。

私は早朝取材のリポーターとして局で準備をしていました。

 

その時、「おはようナイスデイ」本番中にニュース速報。

 

【地下鉄築地駅等5駅で原因不明の異臭が発生。乗客ら十数人倒れる】。

 

地下鉄サリン事件発生の第一報でした。

すぐに出動命令!

「カメラクルーと築地交差点で合流せよ。」

 

これが日本の事件史に残る重大事件になるなんて思ってもいませんでした。

私は、タクシーにのるやいなやラジオのNHK特番に耳を傾けました。

 

『消防車両50台、救急車両30台、新大蔵通りは封鎖、近隣の病院に多数の患者を次々と搬送…』

 

細かな情報をすべてメモ帳にメモしながら、現場のイメージを頭に叩き込見ました。

 

<大変なことが起きている>

 

午前10時、築地交差点に着くと、本当に大変なことになっていました。

 

フジテレビより

 

皆さんがニュースの資料映像で見ているあのとんでもない光景が

目の前に広がっていたのです。


フジテレビの特番が始まりました。

番組を自分のラジオで聞いていると、特番キャスターの堺正幸アナウンサーが中継現場を呼びかています。

 

「築地駅前に吉野記者が行っています。吉野さん!・・・・吉野さん!!」。


私はフジテレビの中継カメラを

見つけましたが、吉野記者はいません。大混乱の取材現場から戻って来られないようでした。

 

私は、その場にいたスタッフ に聞きました。

「ねえ、ここって築地?」

「そうです、築地です!」

 

答えたのはスタッフではなく、

本番中の堺アナでした。

<!>

スタッフが持っていた吉野記者用のマイクが私の声を拾ってしまったのです

<どうしよう!>

(堺アナ)「吉野さん、お願いします。続けてください」

 

緊急事態!私の声が放送にのってしまった!

<なむさん!>

現場に着いたばかりでしたが、私はスタッフからマイクを奪い取り、カメラの前に。

 

「はい、築地です」

「か!笠井アナウンサー!」驚く堺アナ

 

①カメラの前に、自分の判断で飛び込んだ

 

②勢いがつき過ぎて交通整理の警察官にぶつかり、

音声担当者が慌てて私の耳に本番用イヤホンを入れているのが、写ってしまった。(フジテレビより)

 

しかし、私は、何事もなかったかのように、しかし、焦りながら中継を始めました。

 

現場の見た目(雑感)を実況。

しかし、そんなものは3分もリポートしていれば終わってしまう。

 

そして、話す事がなくなった私は・・・・・

“NHKラジオ特番を聞きながら書いたメモ”をすべて読んだ。

 

絶対にやってはいけないことと分かっていました。

56歳の今ならやらない。

しかし、当時31歳の私は、とにかくこの惨事を伝えることしか頭になかったのです。

 

フジテレビ報道センターでも、全く予定がない笠井信輔が画面に登場したので、大混乱だったらしい。

 

結局、報道局の判断により、私はワイド番組のリポーターとして出動したのですが、そのまま夜9時まで連続11時間、築地駅前で中継を行いました。

 

中継の合い間に、近くの聖路加病院に取材に行くと、 救急医療のベッドは足らず、廊下のストレッチャーや、長椅子にたくさんの被害者が寝転がっていて、まるで野戦病院。

 

そんな時に、担当医師から、「多くの被害者の目が縮瞳しています。何かのガスの影響です」という話が出てきていました。

 

その実態が、「サリン」と言う猛毒の化学兵器であったことが分かるのは。さらにその後のことです。

 

朝から夜の9時まで、私の中継ポイントは、11時間経つにつれどんどん築地駅の入り口に近づいていきました。

 

最終的には、私自身も自衛隊の散布した「サリン解毒剤」を吸い込み、翌日まで頭痛が治りませんでした。

 

「もしかしたら、サリンを吸ってしまったのかもしれない」

その日の晩の不安は今でも忘れられません。

 

その2日後-----

さらに信じ難いことが起きたのです。

 

上九一色村、教団サティアンへ

 

オウム真理教の施設に強制捜査が入り、私は教団青山総本部の隣りのビルの屋上で取材をしていました。

 

すると高校時代の放送委員会で大変親しくしていた一つ下の後輩の西村暢彦くんから電話が入ったのです。

 

(こんな忙しい時に何だろう、西村)

 

西村君の電話は衝撃的な内容でした。

あの日、霞ヶ関駅で事件に遭遇して「サリンの写真」を撮影したというのです。

 

それまでテレビで放送されていたのは「チリトリ回収後のサリンの袋」でした。

 

西村君の撮った写真は、まさに電車の中で「つぶれかけているサリンの袋からサリンが漏れ出ている」信じられない写真だったのです。

 

もちろん、いち早くスクープ写真としてフジテレビで放送させて頂きました。

 

詳しいことは西村君が当時のことを詳しくホームページに書いていますので、 読んでみてください。

 

よく撮影したと、もちろん彼もサリンの被害を受けました。

よく死ななかったと、本当に驚きます。

 

そして・・・・・・

最後に、もう一つ事実を書かせてください。


土谷正実 元死刑囚    FNN PRIMEより

 

オウム真理教でサリン生成方法を確立し、極刑に処された土谷正実死刑囚も、同じ高校の出身。

しかも私の一つ下、西村君とは同期です。

 

ラグビー部の中心選手で。 私の弟も同じ高校で一つ下だったので、彼の存在は知っていました。


楽しく、懐かしく、良い思い出しかない高校生活でした。


同じ時を、同じ高校で青春を謳歌した3人が、その15年後に、

事件を起こした【死刑囚】と、

ばらまかれたサリンの写真を撮影した【被害者】と、

アナウンサーになった【取材者】として繋がるなんて、 

なんという人生なんでしょう。

 

地下鉄サリン事件の2ヶ月後、オウム真理教の教祖・麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚逮捕。

 

私はその捜索から逮捕まで、上九一色村のサティアンの上空で

ヘリコプターから7時間中継を行いました。

 

5年前、事件から20年の節目の時には、「とくダネ!」で特集を放送しました。


しかし今はコロナ問題が吹き荒れています。

「25年特集」を組む番組は少ないかもしれません。

 

ただ、まだサリンの後遺症に苦しんでいる方々は沢山いるのです。

せめてこのブログを読んだ方だけでも、あの日のことを思い出したり、あの日何があったか調べていただけるといいなと思って書かせていただきました。

 

最後に、こちらが私の後輩、西村暢彦氏が 当時の様子を詳細に記録したホームページです。

 

【あの朝、地下鉄でサリンを写した】

http://www.asahi-net.or.jp/~ye8n-nsmr/sarin

 

是非読んでみてください。

 

彼が撮影したサリンの写真も見ることができます。

貴重な映像です。




合わせて、こちらの記事も是非!


地下鉄サリン事件ーー25年目の全駅献花巡り】下村健一


https://note.com/reimeken/n/n7333b502caf8


まだまだ多くの被害者の方が苦しんでいると言う事実を、多くの皆さんに、さらに深く知ってもらうためにも



《リンク》

NPO「リカバリーサポートセンター」


 

長文、お付き合いありがとうございました。

 

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