抗がん剤連続投与最終日ですが、まずはこの話をさせてください。
25年前のあの日、私は昼のワイド番組のリポーターをしていました。
発災から45分後にタクシーに飛び乗り、羽田から大阪の伊丹空港に飛ぶ1番機に奇跡的に搭乗で来たのは私たち取材班だけ、あとは、被災者の家族や、政府関係者ばかりでした。
現場は想像を絶する光景でした。
(倒壊した高速道路)
高速道路や一面の住宅街の崩壊、マンションの倒壊、長田区の大火災。
我々報道陣が経験した事のない大災害を前に、30歳そこそこの私はうろたえました。
(火災が多発した神戸の空撮)
何よりも現場到着が早すぎました。
災害対策本部も被災の全容がつかめていない午前10時台。
住宅の倒壊現場行くと、呆然と立ち尽くしていた被災者の皆さんが、詰め寄ってきました。
「救急車呼んでください!」
「消防車を呼んでください!」
「ガスを止めてください!」
「1階で2階の下敷きになっているおじいちゃんを一緒に引っ張り出してください!」
“取材材拒否”なんて甘いものではありませんでした。
みなさんが我々に助けを求めて、すがってきたのです。
一旦取材を中止して、取材班4人で話し合いました。
「私たちは何をしにここに来たのか? それは、この未曾有の大災害をいち早く日本中の、世界中の皆さんに伝えるために来たのではないか? そして、多くの助けを求めなければならない」
「一人の命は非常に重い。しかし、重機もない中、半日以上ここに立ち止まっていては、いけないのではないか?」
「伝えなきゃ!」
その思いが私たちの結論でした。
それからの取材は、被災者の皆さんに謝りながらのものとなりました。
「ごめんなさい、手伝えないんです」
「僕らは今この光景を取材して、この素材を中継車から東京に送らなければならないんです」
しかし、長田区の火災現場では、取材中に思わずバケツリレーを手伝いました。
(長田区の大火災)
映像を見た報道局のデスクに叱られました。
「“手伝ってます”なんて、映像送ってくるな!カメラマンもカメラを置いて消火活動を手伝え!」
大きな災害の現場へ取材に入ると、人として行動すればいいのか? 報道陣として行動すればいいのか? その狭間に落ちてしまいます。
あの時の自分たちの判断は正しかったのか?
25年経った今でも答えは出せません。
その詳細は、拙本『【増補版】僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た』(新潮文庫)に述べています。(何度も紹介してすみませんが)
なぜ、私たちの取材班だけが、東京からの1番機に乘れたのか?
実は午前6時半の段階で「神戸に行かせてください」と言った時に、
デスクの返事は「まったく電話も繋がらないし、映像も入ってこないので“待機”!」
納得のいかない私は「絶対に現場に行くことになる」と考え、女性AD佐々木にこっそり電話をして、
「デスクには内緒で飛行機と現場のタクシーの予約をすぐにするように」と命じたことが大きな要因でした(若かったんです)。
そのADは25年経った今、ベテランの個性的な佐々木ディレクターとして、私の入院生活の密着取材をしてくれています。
阪神淡路大震災の取材で、被災者の皆さんと、警察・消防・自衛隊・医療・ボランティアの皆さんとの様々な絆を感じました。
そんな私も、25年も同じ職場で仕事をしてきた佐々木ディレクターとの絆を感じるのです。
あの震災で犠牲となった6434人の方々のご冥福を、心からお祈りします。