今日、堀ちえみさんの出演した「徹子の部屋」を観ました
なんて言えばいいんだろう。
涙がとめどなく流れてきて、放送中ずっと泣いてました。
途中、医療スタッフの方が病室に入ってきたのですが、私の様子を見て、
そのまま出ていってしまいました。
涙で顔がグチャグチャだったんです。
堀さんの話を聞いて、「自分はまだまだだな」と思いました。
堀さんは、舌を6割も切除する大手術を受けていたんです。
見事でした。
すべてしっかりと聞き取ることができました。
ここに至るまで、どれだけの努力があったか。
今、書いていても、また涙が出てしまいます。
堀さんは凄いです。
いちばん共感したのは
手術をしたくなかったので、
「これで自分の人生終わっても仕方がない」
と、お話した部分。
しかし、高校生のお嬢さんが「自分はまだ母さんと16年しか一緒に暮らしていない」と頼まれて、手術を決断をしたと話していました。
実は私も、「生存率7割」と担当の先生から聞いた後、
「死ぬかもしれないと、うろたえるよりも、死を覚悟した方が明るく生きられる」と思っていたんです。
自分の人生56年振り返って、学生時代も楽しかったし(浪人時代は除く)、親友たちもでき、フジテレビアナウンサーになって華々しい道を歩かせていただいて、素敵な仲間と仕事ができて、本も書いて講演もして、2ヶ月だけだけどもフリーアナウンサーとしての楽しさを味わせてもらいました。
「だったらここでもし病気で死んだとしても悔いはないので、明るくしていた方が、家族のためにもいい」
そう思っていた時期がありました。
ただ、私も気になっていたのは、高校生の三男のことです
堀さんの娘さんと同じ16歳。
夏休みの終わりに息子から「冬休みは、スキーにつれてって欲しい」と頼まれていたんです。
口数の少ない息子で自分の希望などなかなか言わない子なのですが、確かに、三男だけ、スキーに連れて行ってやっていませんでした。
だから、ほんとにうれしくて…
しかし、12月に判明した「悪性リンパ腫」。
息子の希望は叶えられませんでした。
家族に病気を告白した時の三男の第一声は
「僕とスキーには行けないの?」
告知を受けてから今日まで妻の前で泣いたのは1回だけです。
「息子をスキーに連れていけない」とその無念を吐露した時でした。
妻は
「来年、連れて行けばいいのよ!」と
いつものように、何でもない事のように返事をしました。
あそこで、妻に泣かれていたら、私は心が折れていたかもしれません。
堀さんのお嬢さんの話を聞いて、
「そうだよな。死んじゃダメだよな。三男との約束も果たせてないし、
自分の人生まあこのあたりかなって自分で決めちゃだめだよな」
と強く思ったんです。
フリーになったばかりで、これから半年間、長ければ1年の闘病、と考えるだけで怖気づいていた自分が恥ずかしくなりました。
「髪の毛が抜けたくらいなんだ!」と心の底から思いました。
堀ちえみさんには感謝しています。
実は私も「徹子の部屋」には深い思い入れがあります
フリーになって「徹子の部屋」から出演のオファー受けたときは、天にも昇る気持ちでした。
噂では「出演は1年待ち」なんて話が飛び交っていたので、まさか自分が呼んでもらえるなんて。
その後、自分が「がん」であることが濃厚になってきました。
担当の先生は「がんの種類が明確になる前に入院もできますよ」
そんな提案も受けました。
すぐに、すべての仕事をキャンセルしたら?ということです。
しかし、私はどうしても「徹子の部屋」に出たかった。
なぜなら、「このまま復帰できないかもしれない」と考えたときに、フリーになった笠井は「徹子の部屋」に呼ばれる人だったんだな、と最後に皆さんに覚えていてもらたい
と、当時は真剣に考えていました。
結果、「徹子の部屋」出演直前に、「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」という正式名称が出て、「徹子の部屋」でも悪性リンパ腫の話をさせていただきました
自分の病気の話をしたのに本当に嬉しかった。
「黒柳さんはすごい!」と思いました。
黒柳さんが、私が癌であると知ったのは、収録の20分前ほどです。
いろんなプランがあったと思いますが、それをすべて崩して、
がんの話、家族の話を導いてくださいました。
最後にに黒柳さんは言ってくださいました。
「病気が治ったら、またいらっしゃい」
これ以上ない言葉でした。
「絶対に治ってやる!」
その時、「生きてやる」とさらに強く心に思ったのです。
「徹子の部屋」には、黒柳さんには感謝してます。
「フジテレビ退社直後の病気発覚で可哀想」と、いろんな方に言われましたが、
後悔はしてません。
フリーになってなかったら「徹子の部屋」にも出られませんでしたものね。
「足し算の縁」なのです。