こんにちは。 

 等身大の自分で人を笑顔にしたい人のための 

『小福の風』メッセンジャー 

みうらきょうじ です。 


 仙台ではまもなく青葉まつりが催行されます。 


※公式HPより

先日、歴代の告知ポスターが掲示されているところで立ち止まり、眺めていたところ、

自分の左肩口付近にまで接近する気配。


反射的に左横を見ると

「あっ!」と思わず声をあげてしまいました。 


もう、60センチ付近にまで 

学生風の男性が接近していたのです。 


片手に持った携帯の画面を凝視しながら 

歩いていたんです。 



自分の声に『反応』したのか 

かすかな驚きの表情をして 

脇を通り抜けていきました。 


 今や全国津々浦々で見かける『歩きスマホ』。 

『歩きスマホ』の危険性は言うまでもないのですが 

 なぜ人は携帯電話にかくも 

支配されているのでしょうか。 


 以前、日本に携帯電話が急速普及した要因として 

 日本の気候を挙げられた方がいらっしゃいました。


 つまり、『湿潤性』です。 

 ドライではなくて潤いの気候風土が要因だ

という説です。 


 これは『人肌』から感じる 

他人と湿度を共有していたい、 

実際、支え合ってきた風土がなせる業だ

というのです。 


 誰かとつながっていたい 

何かといつも交わっていたい 

だからいつも画面を凝視つづけている。 


どこか心の奥底では 

個性、自立、自己責任に違和感を感じる。 

ところが現状は 

切り捨てる側 

切り捨てられる側

の2極分離の状態になっている。 


湿度不足を体感する日常で 

『潤い』を求めたくなる。 

 誰かに頼りたい 

すがりたい 

誰かに依存したい、と。 


 その表れが『歩きスマホ』 。 


 これは多くの人が 

『自分だけ』で居られなくなっていることを

意味します。 


 『自分』が頼りになる対象でなく、

他の何かに求めようとし、

求めることで補われることが習慣化している。 


その意味でも 

人に役立つ自分 

別け隔てなく愛を注ぐことに意欲を持つ精神性は 

現代社会において『オアシス』的な存在 です。 


自分の役立たせ方を知った人は 

真の生き方と出合います。 

凝視するのは

『等身大の自分』


スマホを凝視してもモノにぶつかるだけです。 

それでも人はいつも誰かに依存したい。


スマホを覗いても『自分』は みつかりません。


砂浜に投げ出された『孤独感』を紛らわすだけです。

今回も最後までお読みいただきまして

ありがとうございました。