小説 熱い鉄に水は残らない 88
88申し込んだ2人の母親はそれぞれの想いを胸に抱きながら帰途についた。佐伯真由子の場合。帰りの電車の窓に、自分の顔がぼんやりと映っていた。――問題を解決する場ではない。あの一言が、まだ耳の奥に残っている。(じゃあ、私は……何をしに行ったのだろう)これまで、ずっと“正しい関わり方”を探してきた。本を読んで、講座を受けて、専門家の話を聞いて。そのたびに「これがいい」と言われる方法を試してきた。それでも――息子は、ますます怯えるようになった。(自信を持たせたいだけなのに)その思いは、間違っていないはずだった。むしろ、母親として当然のこと。――正そうとする――導こうとする――理解しようとする咲良の声が、静かに重なる。(全部、やっていた)いや、それしかやってこなかった。“見ていない”その言葉が、胸の奥に引っかかる。(私は……何を見ていたんだろう)テストの点数。ミスの数。勉強時間。“息子そのもの”ではなく、“息子の状態”言い換えれば評価基準ばかりを見ていた気がする。(でも……見守るって、何?)何もしないということ?放っておくということ?分からない。何も分からない。それでも、葉書を書いたときの、あの感覚だけは残っている。“きれいに書こう”とした瞬間、手が固くなった。何か身体が押さえ込まれるような感じがした。(あれが、私なのか)整えようとして、固める。良かれと思って、締めつける。ふっと、息が漏れた。(……やってみるしかないか)窓の外を流れる景色が、少しだけやわらかく見えた。中村弘子の場合歩きながら、何度も振り返りそうになった。あの部屋に、何か置き忘れてきたような感覚。(何も教えてくれなかった)正直な気持ちだった。(じゃあ、どうすればいいの)娘は、じっとしていられない。言えば言うほど、反発する。何度も何度も同じことを繰り返す。(ちゃんとしなきゃダメでしょ)そう言い続けてきた。でも――「それ自体が、見ていない状態です」あの言葉。(そんなはずない)ずっと見てきた。ずっと気にかけてきた。(あの子のために)そのはずだった。なのに、なぜか胸の奥が、ざわついている。葉書を書くとき、手が止まった。(どう書けばいいのか分からなかった)きれいに書く?丁寧に書く?正しく書く?全部、違う気がした。文字を書くのがこんなにも難しいとは。結局、よく分からないまま書いた。(あれで良かったの?)分からない。何も分からない。でも――(なんでだろう)少しだけ、静かだった。娘のことを考えても、いつものように「どうするか」が浮かばなかった。ただ、浮かばなかった。それが、少し怖くて、少し楽だった。(見守る……か)その言葉を、口の中で転がす。きっと、またイライラする。また言いたくなる。でも、そのときに――(今、何をしてる?)そう、自分に聞いてみようと思った。夜風が、頬をなでた。何も変わっていない。でも、何かが、ほんの少しだけ、動き始めていた。