小説 熱い鉄に水は残らない 86
86沢村美都子のカウンセリングルームは、静まり返っていた。子どもの姿はない。壁に掛けられた時計の秒針の音が、やけに大きく響く。円形に配置された椅子に、五人の母親が座っていた。一人は、整った服装に身を包み、手帳とペンを準備している。“何かを持ち帰る”意志が明確に見える。隣には、少し疲れた様子の女性。両手を握りしめ、何かに縋るような眼差しをしている。奥には、理知的な雰囲気の女性。腕を軽く組み、観察するように周囲を見ている。そして、二人。一人は不安と期待が入り混じった顔。もう一人は「試してみよう」という軽さを含んだ態度。それぞれに、“解決”を求めている空氣があった。扉が開く。柏木咲良が、音もなく入ってくる。白を基調とした装い。余計なものは一切ない。ただ、それだけで場の密度が変わる。「本日はお越しいただき、ありがとうございます」一礼。声は静かだが、いつもよりわずかに硬質だった。咲良は椅子に座らず、そのまま立つ。全員を見渡す。「本日は、『親子の基礎ワークセッション』のガイダンスです」その“間”に、母親たちは自然と姿勢を正す。「先に、はっきりと申し上げます」その一言で、空氣が引き締まる。「このセッションは」「皆様の問題を解決する場ではありません」瞬間、参加者の表情に迷いが浮かぶ。ペンを構えていた女性の手が止まる。疲れた様子の女性は、わずかに眉を寄せる。腕を組んでいた女性は、視線を上げた。咲良は続ける。「お子様の状況」「ご自身の不安」「家庭で起きている問題」「それらに対して、助言や指導はいたしません」言葉は、淡々としている。逃げ場を与えない。沈黙が部屋を包む。一人の女性が、耐えきれず口を開く。「それでは……何を……」言葉は途中で消える。咲良は、その問いを拾わない。「多くの場合」静かに続ける。「親は“何かをしてあげよう”とします」「正そうとする」「導こうとする」「理解しようとする」「しかし、それ自体が――」「子どもを見ていない状態です」空氣が、明らかに変わった。「……見ていない?」小さく呟く声。「はい」咲良は、わずかに頷く。「“どうすればよいか”という視点に立った瞬間に」「目の前の存在ではなく、 “問題”を見ています」誰も言葉を発さない。「このセッションでは」「それを、一度すべて外していただきます」ペンを持っていた女性は、ゆっくりとそれを机に置いた。「進め方は単純です」「月に一度、こちらから提示をいたします」「それを、一ヶ月、ご自身で実践していただきます」「お子様への関わりも、各自で行っていただきます」腕を組んでいた女性が、はっきりと眉をひそめる。「つまり……丸投げということですか?」一瞬、空氣が張り詰める。咲良は、わずかにその女性を見る。視線は柔らかいが、揺れない。「そう感じられるのであれば」「今回は、ご受講を見送られても構いません」言い切った。場が凍る。誰も予想していなかった返答だった。疲れた様子の女性は、明らかに動揺している。“救われる場”を求めて来ていたからだ。理知的な女性は、じっと咲良を見ている。試されていると感じている。「技法に関するご質問はお受けします」咲良は、淡々と続ける。「しかし」「その意味」「正解」「今後どうなるか」「それらについては、お答えいたしません」「各自で、観ていただきます」沈黙はさらに深まる。「……不親切ですね」誰かが小さく言った。咲良は、わずかに微笑む。「そうかもしれません」「ただ」「誰かが答えを持っているという前提がある限り」「ご自身で観ることは起きません」言葉は静かだが、深く刺さる。部屋の空氣が、じわりと重くなる。同時に、何かが剥がれ始めている。「最後に」咲良は、全体を見渡す。「この場は、“何かを得る場”でもありません」「“何も持たずにいること”に慣れていただく場です」誰も動かない。理解している者はいない。だが、無視もできない。長い沈黙のあと――最初にペンを置いた女性が、小さく息を吐いた。「……やってみます」その声は、決意というよりも、“手放しに近いもの”だった。他の母親たちも、言葉にはしないが、それぞれに何かを引き受け始めていた。沢村美都子は、静かにその光景を見ていた。これは導入ではない。選別でもない。ただ、“覚悟が要る場”が、今、確かに立ち上がったのだった。