小説 熱い鉄に水は残らない 91
91病院の食堂は、昼のピークを過ぎ、わずかに落ち着きを取り戻していた。窓際の席に、白川悦子と椎名優子は向かい合って座っている。トレイに並べられた食事は、ほとんど手つかずのまま。二人の意識は、食事よりも互いの“気配”に向いていた。優子は、箸を持つ手を止めたまま、悦子を見ている。じっと、観る。(……違う)それは一目で分かった。姿勢でもない。服装でもない。話し方ですら、表面的には変わらない。だが、“抜けている”。何かが、確実に抜け落ちている。(緊張……いや、違う)もっと微細なもの。“構え”。それが、ない。悦子は、湯気の立つ味噌汁を静かに口に運び始めた。その一つひとつの動きに、無駄な力がない。優子は、ようやく口を開いた。「……何かあった?」単刀直入だった。遠回しな探りなど、彼女の性には合わない。悦子は、少しだけ驚いたように目を上げる。「え?」「変わったよね」即断だった。そして、その言葉には確信があった。悦子は、わずかに笑う。「……分かる?」「分かる」優子は即答した。「何が、とは言えないけど」「でも、明らかに違う」一拍置く。「何かしたの?」悦子は、少し考えるように視線を落とした。(何かした……)それを問われると、言葉に詰まる。「……何もしてない、してるかもしれない」優子の眉が、わずかに動いた。「は?」「いや、正確には……」悦子は言葉を探す。「何かを“しない”ようにしてる」優子は、完全に箸を置いた。その目は、完全に“聴く体勢”に入っている。「どういうこと?」悦子は、ゆっくりと語り始めた。「ある場所でね、セッションを受けたの」「セッション?」「うん。“和敬静寂”っていうところ」その名を口にしたとき、優子の中で何かが、軽く引っかかった。(和敬静寂……)聞き慣れないが、茶道の言葉。"悦子、茶道でも始めた?"妙に、残る響きだった。「そこでね」悦子は続ける。「言葉を渡されたの」「言葉?」「うん。それを、暗唱するの」優子は、わずかに首を傾げる。「それだけ?」「うん。でも……」悦子は少しだけ間を置いた。「意味を考えちゃいけないの」沈黙。優子の思考が、一瞬止まる。(意味を考えない?)それは、彼女の生き方と真逆だった。「……どういうこと?」悦子は、そのまま説明する。意味を追わず、ただ言葉を流すこと。日常の中で、ふとそれが“降りてくる”こと。診療の中で起きた変化。優子は、一言も挟まずに聞いていた。その表情は、冷静そのものだが、内側では猛烈な速度で整理が進んでいる。(再現性は?)(主観的変化か?)(環境要因は?)(プラセボ的なものか?)次々に仮説が立ち上がる。だが同時に、目の前の悦子の状態が、それらを単純に否定していた。(これは……)作られた変化ではない。「……面白いね」優子は、静かに言った。その声には、純粋な関心があった。「面白い?」悦子が少し笑う。「うん」優子は頷く。「普通、逆でしょ」「意味を理解して、応用する」「それが基本なのに」「意味を排除して、変化が出る」「……興味深い」その言葉には、医師としての知的好奇心が滲んでいた。「で、その“和敬静寂”って何?」すでに次の段階に入っている。悦子は、簡潔に説明した。柏木咲良と遼学のこと。説明会の印象。セッションの流れ。優子は、黙って聞いている。だが、その内側では既に動きが決まっていた。(行ってみよう)迷いはない。「次、いつ?」即座に問う。悦子は少し驚く。「え?」「セッションとか、説明会とか」「あるでしょ?」優子の目は、完全に定まっていた。何事も、曖昧にしない。気になったものは、自分で確かめる。それが椎名優子だった。悦子は、わずかに微笑む。「……あると思う」「教えて」間髪入れない。その即応性に、悦子はどこか懐かしさを感じていた。(変わってないな)だが同時に、その“徹底する姿勢”が、これから何を引き寄せるのかを、どこかで感じてもいた。優子は、すでに食事を再開していた。だが、その意識は完全に次へ向かっている。“命を取り上げる”その先。“命をどう生かすか”その問いを、彼女は決して曖昧にしない。静かに、しかし確実に。椎名優子は、次の扉の前に立とうとしていた。