小説 熱い鉄に水は残らない 92
92食堂を出たあとも、椎名優子の歩みは緩まなかった。白川悦子の話を聞いた瞬間から、 すでに結論は出ていた。――行く。ただ、それだけだった。「で、いつなの?」病院の廊下を並んで歩きながら、優子は再び問う。悦子は少し困ったように微笑む。「……それがね」「今回、私が受けられたのも、 かなりイレギュラーだったみたいで」優子の足が、ぴたりと止まった。「じゃあ、次は?」「たぶん……四月頃って言ってた」沈黙。その一秒後。「遅い」即答だった。悦子は思わず苦笑する。「そう言われても……」優子は腕を組み、わずかに視線を落とす。その表情は、すでに“代替案を構築している顔”だった。(四月……待てない)理由は明確だった。(今、動いている)この感覚。悦子に起きている変化。そして、自分の中に立ち上がっている問い。“命をどう生かすか”これを、保留には出来ない。優子は顔を上げた。「頼んで」「え?」「あなたから、頼んでみて」ためらいのない声だった。悦子は、一瞬言葉を失う。「いや……」「そんな簡単には――」「簡単じゃなくていい」被せるように言う。「でも、やる」その目は、静かに、しかし強く定まっていた。悦子は、その視線を受けて、小さく息を吐いた。(この人は……変わらない)昔からそうだった。決めたら動く。そして、その動きに曖昧さがない。「……分かった」少しだけ、間を置いて言う。「でも、結果は保証できないよ」「いい」即答。「その代わり」悦子は続ける。「動機を書いて」「動機?」「うん。どうして受けたいのか」「それを、私に送って」優子は一瞬だけ考え、すぐに頷いた。「分かった」その日の夜。悦子のスマートフォンに、一通のメールが届いた。差出人――椎名優子。開く。そこには、簡潔でありながら、一切の曖昧さを排した文章が綴られていた。“私は産婦人科医として、 これまで多くの命の誕生に関わってきました。しかし、その命がその後、どのように生きていくかについては、医療の範囲外として扱われてきました。けれども、命は生まれた瞬間から環境と関係性の中で方向づけられていきます。その最初の単位である家庭、とりわけ親の在り方が、決定的な影響を持つと感じています。私は、命を取り上げるだけでなく、命がどのように活かされていくか、その起点に関わりたいと考えています。そのためには、従来の知識や指導ではなく、人の在り方そのものに触れる必要があると感じ、今回ご連絡いたしました。”悦子は、しばらく画面を見つめていた。(優子らしい)無駄がない。感情に流れない。しかし、その奥にあるものは、極めて純度が高い。(……送ろう)悦子は、静かにメールを作成した。件名:事前ヒアリングに関する問い合わせ本文には、自分のセッションがイレギュラーであったことへの謝意と、優子の希望、そしてその動機文をそのまま添付した。一行、付け加える。「可能であれば、事前ヒアリングの機会のみ ご検討いただけますでしょうか。」送信。静かな夜の中に、その一通が放たれた。翌朝。サロン和敬静寂。朝の光が、障子越しに柔らかく差し込んでいる。柏木咲良は、静かにメールを開いた。一通。白川悦子から。本文を読み進める。そして、添付された文章へと目を移す。数行。その瞬間、咲良の指が、わずかに止まった。(……これは)静かに、読み返す。“命を取り上げるだけでなく、命がどのように活かされていくか――”その文脈。その視点。その問いの立て方。「遼学さん」呼びかける声は、いつもと変わらない。だが、その奥に、わずかな“確信”が宿っていた。「一通、面白いメールが来ています」静かな空間の中で、新たな流れが、音もなく、立ち上がろうとしていた。