小説熱い鉄に水は残らない104
104椎名優子は、しばらく言葉を失っていた。目の前には、空になった皿。カルボナーラの余韻だけが、かすかに残っている。(……なんてことだ)胸の奥で、小さく呟く。そして次の瞬間、思わず、苦笑がこぼれた。「不覚だったな……」声には出さない。だが、その響きははっきりと自分に向けられていた。(二十年も前に)(あんな宝物を、もらっていたのに)“秘術”――そんな言葉が、自然と浮かぶ。あのとき、伯母は何気なく語った。だが、今になって思えば、それは極めて本質的な“何か”だった。(忘れていた……)いや、正確には、(使い切って、手放した)という方が近い。産婦人科医になるまでの十年。あの言葉を、繰り返していた。「私は産婦人科医で……」意味を深く考えることもなく、ただ、置くように。その結果、(自然と、やっていたな)努力を。無理をしている感覚もなく、気づけば、必要な行動を選び続けていた。(意識していたのは……せいぜい四、五年か)大学に入る頃には、それはもう“当たり前”になっていた。だから――(忘れた)優子は、椅子の背にもたれた。(人は……)思考が、ゆっくりと巡る。(軌道に乗ると)(原動力を、忘れるのかもしれない)そして、(自分で切り拓いたような顔をする)どこか、静かな皮肉が混じる。実際、そうだった。産婦人科医になってからは、すべてが変わった。臨床。判断。正確性。そこに求められるのは、徹底した論理と、意味づけ。---“意味を考えない”などという余白は、どこにもなかった。(当然だ)命を扱う現場に、曖昧さは許されない。だが――(それだけでいいのか)ふと、その問いが浮かぶ。伯母の言葉が、ゆっくりと、奥から立ち上がってくる。「自他を心地よくする仕事」---あのときは、ただ、産婦人科医という職業に重ねていた。だが今は、違う。(私は……)(そこに、届いているのか)答えは、すぐには出ない。だが、ひとつだけ確かな振り返りがあった。感触があった。目の前の臨床に向き合っている今こそ、あの“ 私は自他を幸せにする産婦人科医です ”このつぶやきを忘れていないか、と。(まだ、確立していない)現実的な措置を全うすることに目を奪われ“生かす命”その方向へ、自分の仕事は完全には向いていない。その瞬間――頭の奥で、何かが、ふっと響いた。「優子」誰の声でもない。だが、はっきりとした響き。「まだ、お前の仕事は真の方向を向いていないぞ」優子は、ゆっくりと目を閉じた。(……そうか)責められているわけではない。ただ、思い出させられている。あのとき、受け取ったものを。(プレゼント、か)小さく、そう思う。与えられていたのに、気づかずにいたもの。いや、気づいていたが、(使い終わったつもりでいたもの)しかし、それは終わっていなかった。終わりのないつぶやきなのだ、と。“私は自他を幸せにする産婦人科医です”今、再び、差し出されている。優子は、ゆっくりと目を開けた。セッションは、次の土曜日。(……いいな)不思議と、構える気持ちはなかった。理解しようとする焦りも、意味を掴もうとする癖も、少しだけ、距離を置いている。(このまま、行こう)静かに、そう思えた。テーブルの上の皿は、すでに空だった。そこには何も残っていない。だが――(満ちているな)そう感じる。優子は、その皿を、しばらく見つめていた。***********************************************※この物語はフィクションです。 登場する人物、団体は全て架空のものです。