三千姫様御難 | 津々堂のたわごと日録

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 熊本藩年表稿の宝暦五年二月の項に、「三千姫病気に付龍ノ口(細川家上屋敷)にとどめる」とある。

三千姫とは異腹ではあるが、重賢公のすぐ下の二つ違いの妹(享保七年九月熊本生)である。寛延三年四月廿七日、美濃国加納藩主・安藤対馬守信尹 (65,000石)に嫁いだ。信尹は享保十七年(1732)に同家の当主になっているが、奢侈におぼれ役人の綱紀も乱れ藩政は乱れた。そんな中宝暦三年(1753)五月、主だった家臣によって信尹は「押込」となる。家中も三派に分れ紛争が続き、宝暦四年(1754)幕府大目付に出訴に及んだ。幕府評定所での吟味がなされ五年二月結審し多くの家臣が死罪・遠島・処払い等で処分される中、信尹(37歳)は隠居謹慎を命ぜられた。「三千姫病気に付龍ノ口にとどめる」とあるのは、信尹の大名小路の屋敷が召し上げられた為であろう。
この時期三千姫は32歳である。御難なことであるがその後どうなされたのか。天明元年(1781)五月江戸で亡くなられた。(60歳)

この押込事件から派生した御家騒動事件については、笠谷和比古著 主君「押込」の構造 に詳しい。
 
宝暦六年知行15,000石を減知され息・信成が陸奥国磐城平五万石に転封となる。
この人は老中などを務めるなどし、又藩政についても藩校を創立するなど教育に力を尽くしている。