津々堂のたわごと日録

津々堂のたわごと日録

ほぼほぼ「肥後細川藩」命、その他諸々のたわごと・・・
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 赤穂浪士の討ち入りについては14日、引き上げは15日とするのは、日替わりの時間を明け六つ(6時)としていることによる。今回ご紹介する「富森助右衛門筆記」は、赤穂浪士17名を細川家が預かった折、接待役の堀内傳右衛門の求めに応じて、助右衛門が討入りとその翌日の行動について記した筆記である。吉良の首級をあげる場面については磯貝十郎左衛門加筆を受け、それを冨森が改めて浄書したとされる。元禄16年正月24日の事である。
巷間映画やTVなどで紹介されるシーンとは全く違う、炭小屋で死を迎えた上野介の無残な最期をこの資料が伝えている。「真実は小説(映画・TV)より奇なり」
 

 富森助右衛門筆記

一元禄十五年十二月十四日夜四十七人本所林町堀部弥兵衛・杉野十平次借宅江集り致支度寅之上
 刻吉良上野介殿屋敷へ罷越やしき脇ニて人数二手ニ分、表門よりハ梯子をかけやねより乗入、
 うら門ハかけやニて門打やふり押入申候、表之玄関隠居之玄関打破候処、出合候者ハ突臥或ハ
 討捨ニいたし候而上野介殿寝間へ乱入申候所ニ、上野介殿寝所ハ逃出かくれられ候付おもてう
 らより押入候ものとも家内戸障子を打破無残所尋申候、玄関之番人其外近習勝手まハり泊番之
 者と相見へ候て出合候もの共討捨申候、其内二ハ手負半死之ものも可有之や難斗候、台所辺ニ
 てハ雜人も有之と相見候、然共敵対いたし候ものハ三四人斗残之者共ハ立あひ候ニ不及通り合
 打捨雜人と慥ニ見届申候ハ如斯用捨仕候而逃去次第ニ任候、表門・うら門より押入候時、番人
 之内出合候者雜人も二三人討捨申候、屋敷之中打廻ひたと声をかけ出あひ候もの可有之やと心
 懸候へとも、長屋之侍共出合不申候、漸二三人罷出候、則突留申候と覚申候、其内之もの共死
 生之処ハ不分明候、右之通家内二階迄無限尋申候へ共上野介殿相見へ不申候、左兵衛殿ニも同
 前并此御方へさして御ニけ 此節やしき中壱人も出合申もの座敷中ともに無之明やしき様ニ被
 存候、然所勝手之内炭部やと相見へ申候所ニ戸立候而有之をさがし、残候所見出候て戸うちや
 ふり申候処、内ニ人二三人も有之と相見へ、内よりむさと仕たる物さら・すミ・鉢をなげ打ニ
 いたし防申候処。きび敷セり詰申候付両人両度ニ外江切出申候而少々働申し候を討留申候、残
 り之者を間十次郎一鑓突申候所、脇差抜あハせ申候を武林只七一刀切とめ申候、此死人年頃上
 野介殿ニても可有之かと心付候所有之、装束を見申候所、下着白小袖ニて候、然は面之内身之
 内ニ古疵可有之と遂吟味を候処ニ、
従是面之疵は当座之疵ニまかい不分明候得は、背之疵慥ニ
 相見へ候付、首ヲ十次郎ニ揚させ候而白小袖ニつゝミ、
(是迄二しるし御座候而前後磯貝十
 郎左衛門手跡)かねての相図之笛を吹合セ、表之玄関前へ集前かと為案内とらへ置候表門之番
 人三人ニ見せ申候所、無疑上野介殿しるしニて御座と申候、懐中之守袋三つ御座候を、是も証
 拠ニと其場所之者とも取添致持参候、右之後弥出合候者一人も無御座候付長屋之前ニて上野介
 殿討取候事声を上ヶ申候へ共、戸を引立候まゝニて、出候ものも無御座候、上野介殿討留候上
 外ニ存念無之候付うら門之内へ惣人数呼集名書之帳面を以人別ニ呼出しニ相改打入候人数無相
 違あつめ裏門より退出仕候、人数之内深手手負候者一人も無之候、かす手負候もの一両人御座
 候
         (以下略)

 赤穂浪士の討ち入りの日を前にして、国立国会図書館に「冨森助右衛門筆記」のコピーをお願いしていたがそれが昨日到着した。
最近は足は痛いし、図書館へ出かけるのも難儀だし、重い本をひっくり返しながらのコピーを撮るのもつらいし、ましてや本を借りて後日返却するためにまた出かけるというのが大いにプレッシャーになっている。最近はすっかり国立国会図書館のお世話になっている。

 「冨森助右衛門筆記」は、細川藩邸に御預けになった17名の浪士の世話役を務めた堀内傳右衛門が、助右衛門に乞うて討ち入りの様子を筆記してもらったものである。(磯貝十郎右衛門が一部書き加えている)ここに吉良上野介討ち取りの様子の真実が書き残されている。
映画やTVドラマのように「炭小屋から引きずり出して」切腹させたというのは全くの「嘘」で真実は間十次郎の鑓の一突きと、武林唯七の一刀により「炭部屋之土間ニ切ころされ申候」という状態であった。

 

 討ち入りは14日とされるが、これは当時の「日の替わりが明け六つ(朝6時)」であることによる。現代の時計からすると15日のことだから、「冨森助右衛門筆記」は明日ご紹介しようと、必死でタイピング中である。

 

 NHKの大河ドラマ「べらぼう」も最終回間近となってまいりました。
前半の遊里吉原を舞台としたシーンでは、いろいろ過激な描写もあって驚かされました。
熊本史談会12月例会に於きましては、「遊女の恋文」を資料として以下の如く開催することといたしました。
今年も、多くのビジターの皆様のご参加をいただき、会員一同より厚く御礼申し上げます。

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                    記
 

 日時:令和7年12月20日(第三土曜日) 午前9時30分~11時45分
 場所:市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」

 演題:吉原遊女の営業恋文を読む 
            熊本史談会・会員 眞藤國雄
 意見交換会:熊本史談会の今後の活動等について         

 

一般参加自由
    連絡不要、尚当日参加費として 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    お問い合わせ 090-9494‐3190 

 歴史学者・磯田道史氏が某書籍店に駆け込み買い取られた古文書を解読されて書き上げられたのが、あのベストセラーとなった「武士の家計簿」である。映画化されるなどして時の人となられたのは御承知のとおりであるし、其の後のTV出演や講演活動など多忙を極められている。
その主役であったのが加賀藩の「御算用者」である猪山家であったからこそ残された、詳細な家計に関する記録が残されていて、磯田氏がこれを詳細に読み解かれた。

 

 そこに二人の奉公人についての記録がある。猪山家は父親が70石取り、息子が切米40俵で男女ひとりずつの奉公人を召し抱えている。住み込み・賄付きで二人で給銀155.8匁を払っているという。1両=銀60匁で計算すると、2.6両(1両10万円換算で260万円)ほどである。
この他毎月50文の小遣い、盆と暮れには祝儀、又御供をしたり、使いに出されたりするとその度に15文が支払われその金額は給銀と同額程になっている。
磯田氏は雇い主より奉公人の方がよほど金持ちだったと記述されている。

 残念ながら熊本藩内に於いては、このように詳細な史料は見受けられない。

 「寛政三年十一月御達」に次のようなものがある。
一下々御奉公給銀之儀、遂年高給相望候段相聞候、然處當時諸色高直之折柄ニ付、地居奉公人
 給銀百五拾目限當分被立置候段、當春委細及達候得共、出替之時節ニ差懸候故難澁も有之た
 る哉ニ相聞候、此節猶右御定之高を越、高給相望間敷旨町在一統及達候間、此段被承置彌以
 當春及達候通可被相心得候、此段可相達旨候條、御同役え御通達御組々えも可被成御通達候、
 以上
   十一月           御奉行中

 

 ここに奉公人給銀百五拾目の数字があるが、これは男子の奉公人の給銀らしい。
前述猪山家では、男子83匁、女子34.75匁だというから、時代がいささか違うにしても熊本の場合はやけに高い。熊本藩では300石取り位のお宅になると、どうやら黒字の生活ができるというデータが残されているが、100石取りであった我が家のご先祖様は、さぞかし難儀をされたことであろう。しかし、7~8回江戸参勤をしている人もあり、これには首をかしげている。

 

 

 Gooブログの終了に伴い、現在のAmebaブログに引越しを余儀なくされたが、ようやく慣れてきたところである。一息ついた処に、今度はGmailが使えそうになりそうな気配がある。
次のようなコメントが発表された。

 

 2026 年 1 月より、Gmail で以下の機能のサポートは終了します。

  • Gmailify: この機能を使用すると、スパム対策や受信トレイの整理などの特別な機能をサードパーティのメール アカウントに適用できます。詳しくは、Gmailify をご覧ください。
  • 他のアカウントのメールを確認: POP を使用したサードパーティのアカウントから Gmail アカウントへのメールの取得は、サポートされなくなります
 

早急に対応しなければならないが、この際アドレスの変更をしようかと考えたりしている。

Gooブログさん同様随分長くお世話になったアドレスだが、この際心機一転という選択になりそうな気配である。

 

 

 私の姓の「」という字は、元々の戸籍上では「+八画目に」と書いていた。
処が活字としては存在しない。そこで通常は「真」と書いてきた。
処が十年ほど前、戸籍の電子化に伴い「眞」にすると言ってきた。「真」にという話は全くなく一方的である。以来私は己の名字ながら、「真」と書いたり「眞」と書いたり尻が座らない。
数年前除籍謄本を取得した時、長女と二男の戸籍だけはワープロ刻字されていたが、「真」の字だけは手書きされていた。

 

 名前の方は戸籍上は「」なのだが古臭いので「」と書いたりしている。
姓も名前も新字と旧字で書きなぐってきた。

 

 過日、熊本史談会の12月例会について、熊本日々新聞の文化短信に開催案内を掲載していただくために原稿を御送りした。受付のご連絡をいただいた後、苗字の文字はどちらが正しいかとお問い合わせをいただいた。もう百回近くはご連絡をしてきているが、初めてのお問い合わせである。
「役所から強制的に変更させられたんですよ」と余計なことを書いて「現在は眞」であることをご連絡した。処が折り返しの問い合わせがあった。「名前の文字も新字と旧字が混在していますよ」とのご指摘である。「終戦前の生まれだから、親が旧字を使ったようです」などと下らぬ言い訳を申し上げた。また「眞■國■でご案内しておきます」とのご返事をいただき、ただただ恐縮してしまった。今後はちゃんとした文字で名前を書こうと、強烈に反省をしている。

 「魔訶般若波羅密多心経」(般若心経)というお経は私にとっては割と身近な存在である。
最近は怪しくなったが、かっては276文字のこのお経を完全にそらんじていた。時折思い出しては習字の稽古として写経などもしたことがある。

                                    

   私の名刺入れにはテレホンカードの「般若心経」が入っている。お葬式とか御寺様での法話の会など在った時の為に備えている。
そらんじたり、写経をしたりばかりでもまずかろうと、松長有慶師の訳注般若心経秘鍵などを購入して詠んだこともある。解説書を読んでも「ぼんくら頭」の私にとっては難解の一語に尽きる。
あの名曲「千の風になって」作曲者で作家の新井満氏のエッセイに「自由訳の元祖は、上田敏」という話(2010年版ベスト・エッセイ集)があるが、その中で20年懸かりの構想で般若心経の「判りやすい翻訳本」をつくることを思いつかれたという。取り組むこと10年、現在「自由訳般若心経」という単行本・文庫本が出版されている。

 

 最近恐るべき事実に遭遇した。「旅立ちの般若心経」という演歌調の歌が存在していた。
歌詞全文が般若心経そのもので、余計な語句はない。聞いてみるとそう違和感も感じられずなんとなく納得させられる。そしてこれがAIでうたわれる
魂で「空を叫ぶソウル般若心経【AIボーカル】Soul of Emptiness – Heart Sutra in Soul Music | Sung by AIという歌まである。
これらのことをどう評価するかは難しい話だ。諸兄にもぜひともお聞きいただきたい。

 あと数日で赤穂浪士の討ち入りの日となる。映画やTVドラマなどによると、吉良上野介は潜んでいた炭小屋で発見され、引きずり出されて内蔵助に切腹を進められた後首をはねたとされることが多い。処が真実は大いに相違する。
炭小屋に潜んでいた誰ともわからぬ人物を見つけ、一番に乗り込んだ間十次郎が鑓で突き、続いて武林唯七が切りつけこれによって絶命したらしい。
その後額の古傷などで上野介だと確信し、捕らえ置いた者に見分させた。
 そのことを肥後細川藩士・堀内傳右衛門が原惣右衛門や富森助右衛門に乞うて書き残した「義士墨跡並びに冨森助右衛門筆記」が残されている。富森助右衛門筆記の全文を知りたいと思うが、WEB上でも残念ながら願いは叶わない。
どうやら赤穂市総務部市史編さん室編の「忠臣蔵」第3巻あたりに紹介されているようだから、
国立国会図書館デジタルコレクションにコピー依頼をして取り寄せた。
 映画やTVドラマによって史実がゆがめられている訳だが、大仏次郎氏の名著「赤穂浪士」等では忠実に史実に従っている。

 堀内傳右衛門覺書には、吉田忠左衛門の話として次の様に紹介されている。

   拙者は今度裏門より打入申候、大方隠居候者は、奥座敷裏の方に建申候事、尋常に
   御座候故、幸と存吟味し候故、葭垣有之、雪隠の様なる處に入人音仕候故、押破り
   参候へば、何者か其儘座敷にはいり申者有之候、大かたは臺所より仕込申候歟、か
   こひの様なる所を両方よりせり込み候處に、三人居申し候て、皿茶碗、又は炭なと
   投打いたし候故、間十次郎、其儘鑓付申候、上野介殿前に両人立ふさがり、防申も
   の働き申候、両人共に討果申候、上野介殿も脇差をぬき、振廻し被申候處を、十次
   郎鑓付け印を揚見候へは、古疵らしき所も見え、白小袖を著にて候、得度吟味し候
   へば、上野介殿に極申候。


 つまり、首級をあげたのちに好く調べたら眉間に内匠頭が切りつけた古疵が伺え、捕らえ置いた人物に確認させるなどして上野介だと極めたというのである。

 

 富森助右衛門筆記にはどのように書いてあるのか、国立国会図書館からは発送しましたとご連絡をいただいたが、討ち入りの日に間に合うのか微妙である。

 

 薄田泣菫の完本・茶話の上巻の「紋どころ」の項に、「ラフカヂヲ・ヘルン又の名小泉八雲氏は時偶(ときたま)日本服を着る事があったが、羽織の紋にはヘルンといふ自分の名からもじって蒼鷺(ヘロン)をつけてゐた。鷺はヘルン氏の紋として恰好な動物であった。」とある。
創作家紋「下がり羽の鷺(さぎ)紋」としたらしい。大正五年八月の記事だが、すでに有名であったようだ。明治23年(1890年)島根県尋常中学校時代の同僚で美術教師の後藤金弥氏に依頼して作られたオリジナルデザインである。