年末年始、新世界は多くの観光客で賑わってました。
長いコロナ禍で、年末年始らしい忙しさが無かったこともあり、今回の年末年始はどれぐらい忙しくなるのか、予想ができなかったところもありましたが、予想以上の賑わい、忙しさになったお店が多かったようです。
写真は、1月3日の新世界の様子です。
外国人観光客もかなり増えてきて、コロナ前の雰囲気が蘇ってきます。
さて、通天閣の下にある王将碑の前は広場になっていて、団体観光客の集合場所にも適してます。
年末年始も王将碑のあたりは多くの観光客で賑わってましたが、なぜ、王将碑がこの場所にあるのか知らない人が多いと思います。
王将碑は新世界を象徴するスポットですが、王将碑で写真を撮る人の姿はあまり見かけません。
通天閣の足元にある王将碑、これは将棋の名人、坂田三吉翁の偉業を称え、昭和44年10月、新世界町会連合会により建立されたものです。
坂田三吉は大阪府堺市の生まれ。
生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚えました。
1886年(明治19年)ごろ、新世界からすぐ近く、、通天閣が見える場所(西成区太子町あたり)に住んでいたらしく、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公をしていました。
町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていました。
しかし、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれています。
1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から坂田三吉に、名人・王将の称号が贈られました。
村田英雄の歌『王将』の歌詞の中にも通天閣が登場したり、坂田三吉を主人公にした映画『王将』には初代通天閣、ライオン歯磨の広告も映っています。
坂田三吉と通天閣、人情の街「新世界」の状況が色濃く表現された歌であり映画です。
昭和40年代には新世界には4~5軒の将棋センタ-がありました。
今は物販フロアになっている通天閣の地下にも、当時は将棋センターがありました。
将棋は庶民の遊びとしても根付き、新世界の文化のひとつでもありました。
今では新世界に将棋センターは一軒(三桂クラブ)だけになってしまいました。
特に若い世代の人にとっては、阪田三吉の名前を聞いたことがない人が多いようです。
通天閣の下に王将碑があるのも、このような歴史的背景があることを知ってもらえたら嬉しいです。
そして、新世界を象徴するスポットである王将碑で旅行の思い出に残る写真を撮ってみてはいかがでしょうか。
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