人間や建物などの物体の形状は、それを作った者の意図が反映されたものであり、それには高度な知性が関わっています。物体の形状が持つ機能性や持続性は、その設計者が自然の影響や目的に基づいて考慮した結果であり、それは建物の設計図から人間の骨の形状までさまざまな場面で見られます。

 

この形状が持つ機能性は人体では、骨が顕著です。赤ちゃんが一年経つと歩けるのは、骨の持つ形状とその機能性のためですが、一般的にはそのことは単純に身体的発達と運動能力の発達に限定されがちです。赤ちゃんの歩行を可能にしているもっと大切なことは、歩行リズムです。生まれたばかりの赤ちゃんが母親に抱っこされ、そして母親が歩いているときに生じる歩行のリズムを赤ちゃんは骨を通じて脳に感じ取っています。大人の優しい腕の中で抱かれながら大人の歩行リズムを感じることの重要性はもっと注目されるべきです。そのリズムを感じながら赤ちゃんの骨は適切な形状に発達していきます。 骨の形状は、赤ちゃんがやがて歩けるようになるための基盤となり、知性がその形状を通じて現れるのです。 そして一年もすれば立ち上がり歩き始めます。その継続が今の私たちの歩きに反映されています。

 

空手のサンチンの型もそのプロセスを経て、歩行を可能にしてくれます。それは新たな歩行と言えるものです。生まれてから一年で立ち上がり、今行っている歩行を第1の歩行とすれば、サンチンの型稽古のプロセスを経て開花した歩行を第2の歩行と言えるものです。第1の歩行である、生後一年がたって立ち上がり、歩き始め、今私たちが行っている歩行の原点は、親から受け取ったリズム記憶であると言えます。子どもの後ろから見た歩き方や仕草が親とよく似ているのは、そのリズム記憶を受け取ったためなのです。第2の歩行とは武術的な歩きのことであり、それは型稽古によって養われた律動的な型の動きのことです。親や先祖から受け継いだ動きの質感とは全く異なるものです。

 

サンチンの型の形状を正しく守りながら、型が求める動きを行うことは、型を作った人が意図した律動的な動きの質感を生み出すことになります。なぜなら、型の形状を作っている骨にはそもそも音楽性が宿っており、その骨の音楽性が律動的な動きと調和しているからです。それはその人が生まれた家系に記憶され続け、無意識に伝えられてきた動きのリズム感ではなく、人体の骨に秘められた音楽性の回路を型稽古という意識的な動きによって開いたときに現れる律動力そのものなのです。

 

人間は他の動物と異なり音楽を生み出すことができ、その音楽とは共に響き合う芸術です。武芸としての型稽古を重視した空手は、破壊力や相手への痛みを伴うようなものではなく、型が持つ高度な知性が人体の音楽性を宿した骨の働きを蘇らせるものなのです。赤ちゃんが母親の優しい腕の中で抱かれ、歩きながらあやされるときに赤ちゃんの眠っている骨の律動性が目覚めさせられたように、サンチンの型の動きとリズムが、秘された人体の骨の新しい回路を開きます。それは、肉食動物的な凶暴性をともなった力ではなく、植物が成長し、花をいつの間にか咲かせる、静かでありながら、ダイナミックな力である律動力の開花なのです。「型は美しく」とはまさに骨の持つ形態美と音楽性が型として表現されているから言える言葉なのです。型を力強く見せる必要はなく、ましてきれいに見せる必要はないのです。自然な質感が伴えば結果として型は美しくなります。ただ、この「自然な」という言葉の表す深さである骨の音楽性を私達は失ってしまったのも事実でしょう。骨の美などに想いを巡らすことなどないのが現代の私達ではないでしょうか。

 

 いずれにせよ、人間の骨の形状と動きはその働きを通じて自然の真理や美学が表現されます。頭でどんなに調和について考えても、それは思弁に過ぎず、決して「善」には向かわないことは歴史が証明しています。衝突しない身体感覚があって、はじめて調和という言葉としての記号が、生きた生命力を持ち始めます。頭でどんなにぶつからないように考えて動いても、そうはならないのは、人間の悟性には限界があるからです。身体の形状である骨の構造とその動きに秘された音楽性は、人間の悟性を超えた叡智であり、真理です。骨をこのように作ろうと意図したその知性は宇宙全体の秩序を生みだした創造者の「意」そのものだと言えるのではないでしょうか。「意」とは音の心と書きます。まさに心音です。心音とは身体の中心としての胸部である心臓が発する循環部のリズムのことであり、それは頭の知性と身体の意志の調和を表すものです。頭と身体がばらばらになった現代であるからこそ、律動力の開花が必要なのです。そして、その「意」が骨の形状とその機能に込められるとすれば、型稽古が辛さや鍛錬を求めているのではなく、心地よい響きを伴った律動力の開花を目指すものであることはまさに理に叶ったものであり、この点において骨に秘された律動力を蘇らせることが出来る型稽古は後世に残すべき無形文化遺産であると私は思います。