サンチン立ちは、脛(すね)に拳(こぶし)一つの足幅で立ち、

 

足の向きを内八の字立ちにし、

 

膝を上から見た場合、

足の親指と人差し指の間に

位置させるような形状をとります。

 

このような形状をとることで、その結果内部に回転がかかるようになります。

 

 

しかし、頭ではその回転を認知することはできません。

 

 

それは感覚では知覚できないのです。

 

 

それでも、微妙な回転が足に働いています。

 

このことは同様に上半身の動きに対しても言えます。

 

下半身にしろ、上半身にしろ、感覚神経ではとらえられない機能が、型の形状とその動きのなかに働いています。

 

頭の感覚でとらえられないようなや働きや機能は、身体のいたるところにあります。

 

腎臓や肝臓などの機能は頭では把握できませんが、休むことなく働き続けています。

 

もし、腎臓で血液をろ過する機能が働いていること、肝臓で解毒する機能が働いていることを逐一情報として意識に上ってくるとすれば、

 

日常生活に支障をきたしてしまいます。

 

内臓でなくても、コップを持ち上げる時にどのような運動が腕の内部で働いているのかを私達は決して知ることはできません。

 

 

身体内で起こっていることが頭に情報として上がってはこないからといって、

 

その機能が働いていないわけではありません。

 

サンチンの型についても同じことが言えます。

 

サンチンの型が要求する立ち方、腕の向き、足の向きと膝の角度、肘の位置と手首の角度は、

 

日常生活では決してとらないような、異常な形です。

 

その形状を部分的にはキープしながら、一方では新たな形状を生み出すための動きをする、

 

そのとき身体内部では、頭ではとらえることができない「何か」が起きています。

 

その「何か」を頭では認知できないから、人はこんな型稽古が一体何の役に立つのだろうかと思ってしまうのかもしれません。

 

しかし、頭ではわからないけれど、何らかの力がサンチンの型の形状をとり、その軌道で四肢を動かすことで、生じているのです。

 

この「力」は型稽古を繰り返し、正しいリズムで行うことで、やがて身体記憶になります。

 

そして、その身体記憶は、型の形状をとらなくても、型を想起した瞬間にその人の「身体の状態」を変化させます。

 

その変化した身体状態が、相手を崩す「力」となるのです。

 

その変容した、メタモルフォーゼした「身体像」こそが、「技」を生み出す背後にある「術」なのです。