みなさんのおかげさまで!

しんらいライフサービス株式会社 寺﨑道弥です。

 

 

 

あれから、もう10年?

 

あれから、まだ10年?

 

人それぞれなんだろうと思います。

 

私達全てが、程度の差こそあれ、当事者でなくても傷付いた日。

 

「終戦祈念日」同様に、現代の「祈念日」であります。

 

 

 

あの日、どんな風に過ごしましたか?

 

10年経っても、多くの方が地震発生からどう過ごしたか?鮮明に思い出せるのではないでしょうか?

 

 

私は、地震発生当時、会社(当時は市ヶ谷四番町)にいました。

 

以前も書いていますが、私は人と比べて、数秒地震の波動を早くキャッチできるらしく、「これは大きな地震がついに来たな」と判断しました。

 

と同時に、緊急地震速報の「ドワッ ドワッ ドワッ」という音が、各人の携帯から発せられます。

 

即座に、社員の頭の上にモノが落ちてくるような場所にいないか確認し、ドアを開けるように指示。

 

揺れが収まると、とりあえず外に出るように当時3~4人いた社員を促します。

 

とりあえず、全員の無事を確認しました。

 

四番町「日テレ通り」には、地震が収まってビルから出てきた人だらけ。

 

その間にも、何度も余震が続き、時折「キャー」という悲鳴が聞こえてきます。

 

あんな大きなビルが、揺れている。

 

異様な光景でした。

 

 

多少、余震が落ち着いてから会社に戻ります。

 

ここで考えたのは、勤務を切り上げ、まず社員を無事帰宅させること。

 

しかし、TV報道を見ていると、首都圏の電車は全てストップの方向。

 

「こりゃ、泊まり覚悟だなぁ」と判断したワタクシ。

 

不謹慎だが、私は「ここぞ、俺の出番だ!」と、「何をしようか?」「何ができるか?」ワクワクしていた。

 

既に、家族の安全は確認できており、社長としての対応に専念できていた。

 

 

泊まりなら、まずは食料確保だ。

 

不安な時は、まずは腹を満たすことが一番大事だ。

 

これは、晩秋の南アルプスで日が暮れて帰れなくなり、雨が降ってきて建設中のトンネルでビバークしたサバイバルな経験が生きている。

 

あの時の「棒ラーメン」は忘れられないし、ほっとしたことを今でも覚えています。

 

16時前には、ピザの宅配をしてもらえるか?社員に問い合わせしてもらいます。

 

「2階ならOK」とのことでしたので、17時届けで確保。

 

隣のローソンに行き、カップ麺を1人3食分ぐらい確保。

 

外出していた社員には、回線が繋がれば「戻って来なくていい」という指示を出す。

 

 

日が暮れて来て、17時にピザが届いたので、夕食には早いが、とりあえず皆でお腹を満たしておく。

 

電車の運転再開の情報を待つが、その様子はない。

 

明日になることも覚悟し、泊まりならどうするか?

 

停電しなかったのが幸いして、凍えることはなさそうだ。

 

最悪、在庫の作業着を重ね着すればいい。

 

下の階はベンダー屋さんだったので、当社の洗剤やワックスのペール缶を使い、木のパレットをバラして炊き出しができないか?も考えてみた。

 

暖を取れるように、火を焚けばこのビルの人はもちろん、行き交う人も皆温まれるだろう。

 

火を見ると、不思議と人は落ち着くものなのだ。

 

今の焚火ブームがそれを物語っている。

 

そんな事も考えていたが、必要そうな空気はなく、妄想に終わったことは良かった。

 

 

報道では、一向に電車の運転再開の見込みはなく、徒歩で帰宅する人も出始めた。

 

私が帰ろうと思えば、会社に自転車があったし、何度か自転車で来ていたので、45分で帰れるのは知っていた。

 

もちろん私は、社員を全員無事に送り届けることが責務であり、最後まで留まる決意はしていた。

 

清掃班の車が一台帰ってきていたので、最悪は車で順番に送り届ければいいと割り切っていた。

 

 

残った社員は、電車の運転再開を待ちながら、会議室のTVから流れる衝撃的な映像の数々をただ見ている事しかできず、私は家に帰れないだけで、暖かい中で食べ物で満たされてるだけで、何て恵まれているんだと感じていた。

 

電車の運転再開がない、と分かってくると、女性社員が「私歩いて帰ります」と言う。

 

渋谷だから、女性でもまぁ頑張れば帰れる距離なので、余震に気を付けるよう促し帰宅した。

 

だが、小雪がチラついてきて、相当寒かったらしく、すぐに戻って来た(笑)

 

既に都内は大渋滞であり、「とりあえず交通機関の再開まで待とう」という空気に社内はなっていた。

 

 

段々深夜帯になってくると、社員も不安がり、何とかして帰りたいようだが、外は小雪チラつく寒さ。

 

ここは清掃班の車の社員に任せ、私が自分の車で社員を送り届けるべく、自転車で自宅に向かう。

 

どこもかしこも大渋滞であり、ブレーキランプとテールランプだらけ。

 

その間を軽やかに自転車でいく。

 

ヤバイ、気持ちいい(笑)

 

23時頃だっただろうか、帰宅。

 

母の無事を対面で確認し、「社員送り届けるから」と当時の愛車「ハイラックスサーフ」出動。

 

 

8ナンバーのキャンピングカー仕様に改造してあるので、「いざとなれば、フルフラットで寝りゃいいや」という覚悟はできていた。

 

変換機も持っていたので、エンジンさえ生きてれば電源も取れる。

 

そういった意味では、後々の自転車通勤ブームや車中泊、を既に取り入れていた男であった。

 

長くアウトドアやっていると、「ない」時の衣食住をどうするか?の発想が結果的に洗練されてしまうのだ。

 

 

都心から出る車は、ほぼ動いていなかったが、都心へ向かう車はまだ動く方で、普段の倍ぐらい1時間半で会社に再び戻って来た。

 

清掃班の社員は、女性社員2人と一緒にいてくれたことに感謝し、そのまま帰ってもらうことに。

 

早速、渋谷の女性社員とつつじが丘の女性社員を乗せ、日付変わり1:30会社出発。

 

4時前広尾で渋谷の社員を下ろし、つつじが丘の社員は京王線が動き出した、ってことで千歳烏山で5時半におろして、私の任務終了。

 

帰宅6:30。

 

ゆっくり寝ようにも、「ドワッ ドワッ ドワッ」の緊急地震速報で寝られず、でした。

 

 

 

自分で書いていても、一昨日のランチ覚えてないのに、10年前のことよく覚えてるなぁ、と。

 

10年は長いようでも短いし、短いようでも長い。

 

こんなに昨日のように覚えている事もあれば、当時10歳の小学生は成人しています。

 

当時35歳で今の相方と付き合っていましたが、結婚して45歳のオッサンになり、3歳の息子の父です。

 

 

あの日は、いろんな意味で、日本人いや世界の人の心が傷付いた日でした。

 

程度や受け止め方は人それぞれだとは思いますが、忘れられない日だったということなのでしょうね。

 

TVでは、この10年をライフライン、経済、原発、人…、あらゆる角度で振り返っていましたが、思うように、想うようにいかないのが人の心であります。

 

 

 

地震の影響で、住まいも仕事も強制的に人生の方向転換を余儀なくされた方、私のように平凡な人、この差はなんだろう?

 

何が良くて、何が悪かったんだろう?

 

それを考えるのも愚かなことなのかもしれません。

 

もちろん、ハード面でもソフト面、心備えは必要であることは確かです。

 

でも、私の人生も貴方の人生も、あの日あの時に生死が分かれたように、半日先も分からないのです。

 

だから、過去に生きるのではなく、今を生きることを意識して。

 

今を後悔なく、笑い飛ばして楽しもう。

 

そんな事を考えた、あれから10年でした。

 

 

昨日は車運転中でしたが、一瞬だけ目を閉じて1分間手を合わせながらハンドル操作をしながら、慰霊させていただきました。

 

 

 

 

 

「寺崎道弥 YAMAP」

 

 

 

個人名で、Facebook Instaguramもやってますので、検索してみて下さい。