心法書道の慧竹です。

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先日いろんな書を見せてその人物を想像するという試みをやってみたとき、こんな質問がありました。

 

陸柬之 文賦 「淵」の旁が丸々ない

 

 

 

欧陽詢 行書千字文 「淵」の旁、中部分の画数がごっそりない

 

 

 

そう、古典臨書をやっていると、どこか画数の少ない字とか、偏と旁の旁がないなど、本来あるものを書き忘れたのかなと思われる字や、明らかに書かずにおいたとおもわれる不自然な字に遭遇することがあります。

 

これは「避諱」(ひき)と呼ばれるものの一例なのですが、その字の通り「諱(身分の高い人の本名)を避ける」というものです。

 

「避諱」についてざっくりは知っていたものの、ネット上で見つけた愛知学院大学准教授・劉作勝先生の論文「中国法書中に見る避諱について」で詳細に知ることができましたので、詳しく知りたい方はぜひそちらを調べてみてください。

 

 

中国では、身分の高い人の名前を口にしたり、書くことは大変失礼だとされてきました。

この罪を犯すと棒や鞭で何十回も叩かれ、処罰中に亡くなるということもあったらしく、つまり、うっかり書き忘れたということでは決してなく、最大の注意を払ってそうしているというわけです。

 

避けるということは、全くそのものズバリでなければいいわけですが、画数を減らしたり、旁を書かないということが往々にしてあり、また同意の別の字に変えたり、不必要な偏を付けたりということでもOK。避け方は意外とバラエティーに富んでいました。

 

 

それにしても身分が高いとは誰のことでしょう?

君主や皇帝、親や祖父母などの目上の親族、聖人といわれる賢者のことで、皇帝に関しては特に厳しく五代前まで遡って使ってはいけません。

上の写真二枚は、ともに唐の高祖皇帝、李淵の「淵」を避けた例です。

 

 

これは余談ですが、実は私、中国の師の本名をずっと知りませんでした。名前だと思っていたものは本名でなかったことにも長いこと気づきもしませんでした(笑)

日本とは勝手が違うことが多々ある中国での体験、今思うと貴重なことがたくさんあります。

 

 

そういえば、幼いころ、父は家族みんなをあだ名で呼んでいました。

伯母の名前も、実は全く違うことを知ったときはびっくりしたものです。

本名をやたらと明かさない、なんかそういう習慣もちょっとワクワクしますね。

 

 

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