心法書道の慧竹です。

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かつて日本筆跡診断士協会に所属していた頃、会報【筆跡】の101号に掲載された論文です。長いのでポイントを絞って、連載にてUPします。

 

 

臨書には『形臨』『意臨』『背臨』『倣書』という段階があるといわれる。『形臨』とは手本と全く同じように書くこと、『意臨』とはその書の意(心)をくみとってさらに自分の意(心)を入れて書くこと、『背臨』とはそれらを経て手本を見ずに書いてみること、『倣書』とは全く違う文字をその雰囲気を出して書いてみることである。

 

全く同じように書ける(形臨)ようになったら、次の段階、自分を入れていく(意臨)。自分が美しく素晴らしいと思う人物と自分とを融合させる、結果それが書の作品となって表現されるという流れになる。

 

ちっぽけな自分と素晴らしい書き手との雲泥の差を思い知らされるこの段階で、自分の価値を認識し見つめなおすことができれば、それが自信となり他人と比べることなく自分が好きになる。

 

手本と全く同じように書くことと、それを踏まえた上で自己を表現することとは違う行為。私は後者が苦手だ、その作業は苦しい。なるほど苦手とは苦しい手と書く、なんとも言い得て妙である。

 

最初の段階で規範となる『カタ(型)』を徹底的に習得した上で、それに自分という世界と折り合いをつけた心地いい『カタチ(形)』を作っていく、その全行程の要所要所に有意義な学びが用意されている、それが書道。

『儀礼文化の提唱』―日本文化のカタチとココロ―の著者である倉林正次氏はその中に『カタの原理』についての持論を述べている。書についても、まさにこの原理の通りであり、言葉を借りて表現してみた。

 

『型』を越えて独自の『形』を創れる者が芸術家であり、そういう意味で私はアーティスト気質ではないのだろう。私は美しいと思う『型』を自身に入れていく行為そのものが心地良い。理屈ではなくそう感じてしまうのには、きっと明確な何かがあるのではないか、とずっと解明したくて仕方がなかった。

 

そんな私にひとつの記事が舞い込んだ。留学を終え、帰国して間もない頃だったと思う。書道関連の雑誌に『芸術療法としての書の可能性』と題して、当時法政大学の助教授で心理療法士であった小野純平氏に取材したレポートをまとめたものだった。

印象的な内容にそのページだけ切り取って保管していたため、出版社や雑誌の名前を表記できないことをお許しいただいた上で、その内容をかいつまんで紹介したいと思う。

 

小野氏が筑波大学の研究室にいた頃、筋ジストロフィーや脳性麻痺、自閉症の子供たちを集めて、ある書家の先生に書の指導をお願いしたところ、すばらしい効果が出たという実録であった。

医療現場における絵画や音楽などの芸術療法はよく知られているが、書に関する研究はまだ浅い。しかし書の特性が意外にも有効に作用したと思えたという。それは短時間で出来上がるため、体への負担が少ないということ、集中力を養えるということ、かつ型を持ったうえの心の解放であり、道具が手軽であるなどの理由からだったそうだ。

 

書には『型によって生まれる静かな内的洞察』がある、というくだりに、当時びびっとくるものがあり、この記事は私の脳裏から離れることはなかった。

 

愛用品 友人にもらったデザイントレー、筆置きや墨床に使っています。