先週の土曜日は、2023年下半期の

第6回初級予防医療勉強会を

開催しました。

 

最初に大河ドラマ「龍馬伝:

いろは丸事件」をみて、

坂本龍馬、岩崎弥太郎の

脳の使い方に関して

受講生に発表していただいた後、

古武道家で戦国武将の末裔である

土居清先生に

「西行」というテーマで

講義していただきました。

 

 

この講義の中で土井先生は

自分の先祖について

お話していただきました。

 

 

その先祖の中に鈴木重家という

武将がいます。

 

彼は源義経に従って一ノ谷の戦い、

屋島の戦いなどで

軍功を立てて武名を馳せ、

壇ノ浦の戦いでは

熊野水軍を率いて

源氏の勝利に貢献しました。

 

平家滅亡後は

源頼朝から甲州に領地を一所

与えられて安泰を得ていました。

 

しかし後に義経が頼朝と対立して

奥州に逃れた際、

義経のことがどうしても気にかかり、

所領を捨て、

長年連れ添った妻子も熊野に残して、

弟の重清、叔父の重善とともに

奥州行きを決意し、

文治5年(1189年)に

奥州に向かいました。

 

そして、藤原泰衡の討手の軍勢と

衣川で合戦をし、

源義経、武蔵坊弁慶らとともに

討ち死にします。

 

負けるのを承知で安定した生活を捨て、

源義経とともに運命を共にした話は、

常々土井先生がおっしゃる

武士道と合い通じるものがあり、

脈々と伝わる先祖の力を感じさせます。

 

 

そして、西行の話ですが、

土居先生は日本の歴史に造詣が深く、

様々な人物のエピソードをのべられたので、

その一部を紹介します。

 

「西行は、若いころは北面

(御所の北側を守る)の武士でした。

 

そのころ、鳥羽天皇の中宮である

待賢門院璋子と出会います。

 

待賢門院は美人で有名であり、

そのためか発展家で、

男性の噂話がたくさんある遊び人でした。

 

西行は女性に免疫がなく、

ある意味遊ばれた形でしたが、

その後生涯待賢門院を恋焦がれ、

恋心を象徴する桜や月を題材に

3200首もの歌をつくりました。

 

そして西行は、23歳で

家、妻、子供を捨てて出家し、

高野山に入り30年間修業しました。

 

その後奥州に何度か旅に行き、

能因法師の歌枕を訪ねたり、

東大寺の再建のための金集めのため

藤原氏に会いに行ったりしています。

 

辞世の句は

「願はくは花の下にて春死なむ

その如月の望月のころ」ですが、

西行は河内の弘川寺で、

歌の通り、如月の満月の一日後に

亡くなります。

 

土居先生の推測では、

そのとき待賢門院は死んでいましたが、

埋火のように表に出さずに

彼女に対する燃える思いが

あったのではないか、

しかし50年間の思いがあっても決して

表立って名前をいわなかったところに

武士道と通じるものがある、

とのことでした。」

 

 

また土居先生は、

西行と同じようにひとり、

庵にわび住まいをした

江戸後期の良寛の話をしました。

 

「良寛は燕市の国上山(くがみやま)の

中腹にある五合庵に48歳から

移り住みました。

 

彼は、タケノコが床下からのび

畳を押し上げると、

タケノコが伸びることができるように

畳を切り、さらに天井も開けた

とのことでした。

 

彼は近所の子供と手毬をして

遊ぶことを楽しみ、

子供が夕方家に帰るときは、

悲しくて泣いたとのことでした。」

 

多くの素晴らしい歌と書を残している

良寛ですが、

子供のような純粋な精神を

死ぬまで持っていたようです。

 

以下のようなエピソードもあります。

 

「ある日、神社の草庵で寝ていたところ、

泥棒が入ってきました。

 

良寛は寝ているふりをして

様子をみます。

 

ところが至極質素な生活を

送っているものですから、

盗むものが何もありません。

 

そこで、泥棒は良寛さんが

寝ている布団を剥ぎにかかります。

 

良寛さんは剥ぎやすいように

寝返りを打ちながら知らんふりをして、

布団を与えてやったそうです。

 

このとき詠んだ歌が

「盗人にとり残されし窓の月」

(泥棒は窓から見えるあの月は

取り残していったようだ)です。」

 

良寛は肉体にかかわる

何物にも執着せず、

自分の本質、真我のみで

生きていたのではないでしょうか。

 

 

最後に江戸城を最初に建てた

の話がでたので、

以下のエピソードにふれます。

 

「太田道灌が若い頃、鷹狩に行く途中で、

にわか雨に打たれてしまいました。

 

「まいったなあ。

このあたりに雨宿りできる家はなし…」

見ると、みすぼらしい

あばら家がありました。

 

「すみませんが、

蓑を貸していただけないでしょうか」

すると戸が開いて、

中から顔を出したのは美しい少女でした。

 

少女は道灌の顔を見ると、

いったん中に戻り、ふたたび顔を出し、

すっと何か差し出します。

 

それは一房の山吹の花でした。

 

「はて…これはいったい。

私は蓑を借りたいんですが。

 

花なんて借りても、仕方ないですよ。

 

蓑は無いんですか。」

少女はガッカリした様子で、

カタンと戸を閉じてしまいました。

 

城に戻った太田道灌は、

部下にこのことを話します。

 

「何だったのだあれは。

蓑を借りたいというのに、

山吹を差し出すとは…

サッパリ意味がわからん」「

ははあ…風流な少女ですなあ。

御屋形さま、これは一本取られましたよ。

 

『後拾遺集』に兼明親王の歌がございます。

 

「.七重八重花は咲けども

山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき。」

少女はこの歌を踏まえて、

「蓑」と「実の」を掛けて、

残念ながら蓑はありません、

と言ったのですよ」

 

「なるほど。そういう風流か。

これはわしが勉強不足であった。

なかなか奥が深いのう

和歌というものは。」

以後、太田道灌は歌の勉強に

励んだということです。」

 

 

日本の武将は辞世の句など

必ず歌をつくりますが、

単に勇猛なだけではない

優雅さを兼ね備えているところに

日本文化の奥の深さ、しなやかさを

感じました。

 

 

 

そして日曜日は、2023年下半期の

第6回S-BRAINベーシックコース

セミナーを開催しました。

 

 

土日とも最後に卒業式があり、

卒業生に一言ずつ話してもらいました。

 

今後篠浦塾でさらに学んでいきたいという

意気込みを感じ、

彼らとこれから作り上げる

コミュニティーが周囲の人たちに

どんどんいい影響を

与えるのではないかと

非常に楽しみになりました。

 

 

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