『ルポ虐待』を読んで その(4) | 風が吹く日も、雨の日も

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着物と子どもと「おいしいは正義」の日々。街歩きや美術館なんかも好きです。

 大阪で母子家庭の母親が二児を置き去りにして死なせる事件を追った『ルポ虐待』を読んで思ったことの4回目です。
 今回は、この本を読んで理解できた自分のことについて書きます。

 事件を起こした彼女は、解離性障害の中でも軽いものである離人症性障害との診断を受け、診断が軽かったために事件の責任能力があったと認められたようです。
 しかし、診断の為に心理鑑定にあたった医師のひとりは、彼女の診断は軽くとも病理は深いと述べています。

 解離性障害とは、自分が自分である感覚が失われることなのだそうです。
 その結果、記憶の抜け落ちがあったり、普通に生活しているのに現実感がなかったりといった様々な症状が現れるのだそうです。この障害の症状のひとつには、解離性同一障害があります。これは、多重人格です。
 解離性障害は、当人が耐えられないことを凌ごうとして起こる一種の防衛反応です。
 辛いことを経験した自分を自分から切り離し、意識から取り除こうとして起こります。

 書籍の内容の受け売りですが…
 子供は成長する際に不安定な自我を徐々に統合して人格を形成していくことになります。その際に重要になるのは、保護的な養育を提供してくれる主要な大人との関係です。その関係が薄いと、人格がまとまり切らない状態で大人になってしまうそうです。

 事件を起こした彼女は、父子家庭でネグレクトに遭って育ち、親との関係は希薄でした。小さな嘘をよくついたり、急にいなくなってしまうような行動は、彼女の人格の不安定さの現れと考えられるそうです。
 また、事情聴取の中で彼女は何度もよく憶えていないと言ったり、訊かれてやっと思い出したことがあったそうです。これは、解離性障害の為に記憶が彼女の中でばらばらになっていたり抜け落ちたりしていたからだろうと推測されます。

 私はこの記述を見つけた時に驚きました。
 私は、おおよそ10歳以前の記憶がほとんどありません。あったとしても断片的で、モノクロ写真をちらちら見せられるようにしか思い出すことができません。
 しかし、いくつかのことについては、詳細に憶えていたりします。

 一所懸命見ていた筈のテレビアニメのストーリーも主題歌も全く思い出せません。見ていたことが判るだけなので、他の人と話題にすることができません。
 とにかく自分の記憶については、ずっとおかしな感覚を持っています。

 記憶力が極端に悪い方だとは思いません。
 家族の世話をする為に必要な記憶と経験はかなり細かく持っている方だと思います。しかし一方で、少し会わないでいる人の名前はすぐに出てこなくなります。顔とその人とのエピソードは憶えているのに、名前が出ません。
 エピソードよりもっとざっくりしていて強烈な感覚を憶えている時もあります。香りや色のイメージの時もあります。でも、名前や会社名ではないのです。

 それとは別に、よく、自分が場違いな場所にいる感覚に襲われることがあります。
 なんで自分はこんなところに来る、いることになったんだろう? 居心地の悪さの中で何度も考えるのですが、一向に納得のいく答えは得られません。
 ある時、その理由が知りたくて適当に語句を選んで検索していると、その感覚は「離人症」と呼ばれるものに近いことが判りました。
 「離人症」…解離性障害です。
 私の中に、彼女と同じ要素を見つけました。

 私がなぜ10歳を区切りとしているかというと、その年に転校を経験したからです。
 転校してそれまでと全く違う校風の学校に移ると同時にかぎっ子になりました。また、転校先ではいじめスレスレの日々を送りました。
 学校が辛いと母親に訴えると、ただ母親は困ってしまい、母を困らせたことで私は自殺を考えるようになります。
 この時のことを母は晩年になってもよく憶えており、困らせられたとずっと言われ続けました。
 母にとっても辛い出来事だったようですが、私にとっても親が助けてくれないと認識するとてもショッキングな経験でした。
 それを境に、私の中で何かが変わったのだと思います。

 大きな区切りとして10歳を挙げましたが、その前でも後ろでも記憶が曖昧だったり思い出せないことは沢山あります。憶えてないことの方が多いような気さえします。
 記憶は操作できるというテーマのマンガを読んだ時、きっと私は自分で自分の記憶を隠しているのだと思いました。
 解離性障害とは、まさにそのことでした。

 今では私は生まれてから親と別れる40まで虐待され続けたと認識しているので、40年の間の記憶がまともに残っていなくてもおかしくはないと思っています。
 そして、つい最近まで、しばしばいろいろなところで現実感のなさに悩まされ続けていました。
 これを病理というのなら、私は正に病んでいます。カウンセリングを受けにいった時「よく生き延びてこられましたね」と言われた意味が判りました。事件も事故も起こさずに生きてこれたことは幸運なことでした。

 自分も含めて誰も傷つけず、絶え間ないストレスに耐えるためには、どうしても逃げ場が必要になって自分が自分を休めて守る働きがあるのだと思います。
 ストレスと向き合う技術は私の家族の中にはありませんでした。その為に両親はともに早く命を落としました。
 よく自分がここにまだ生きているものだと思います。
 ストレスに向き合い上手く解消する、それが自分ひとりでできないなら誰かの手を借りる、それは生きていく上で当たり前の技術かもしれませんが、私の生育環境では得ることが叶いませんでした。
 神経症の症状を出して初めて心療内科を受診し、そこでカウンセリングを勧められたから生き延びることができましたが、カウンセラーは支援のプロです。周りのプロでない人と協調して生きていくのは今でも難しい仕事です。

 解離性障害、これが私と彼女を強力に繋ぐものでした。
 それを見つけて、私は自分の存在の危うさに震え、今も生きていることの有難さを感じます。
 ここまで来たんだから、もう少し遠くまでいけそうだと思っています。
 この事件への強い当事者意識を抱えながら、毎日の新聞で報じられる虐待事件を気にかけながら。