水玉文の塩沢御召に、琉球藍型の名古屋帯を結ぶ | 風が吹く日も、雨の日も

風が吹く日も、雨の日も

着物と子どもと「おいしいは正義」の日々。街歩きや美術館なんかも好きです。

 私が初めて自分で誂えをしたのは結城紬だったのですが、二度目が琉球絣でした。
 大城哲さん製作の琉球絣をあてた時、合わせて見せてもらったのは城間栄順さん藍型の名古屋帯でした。

 まだ呉服屋さんとの付き合いが今ほど深くなく、琉球絣藍型の帯も作品級のものだったので、長時間にわたって買う買わない、いくらなら、とやり取りをした末に、どうやっても帯までは無理ということになりました。

 欲しくて変えなかったものは、忘れ難いものです。
 あれから3年くらいは経ったと思うのですが、その時の帯が忘れられません。
 その後、別の商品で紅型の帯を勧めてもらったのですが、「買えません」とお断りしました。
 以来、紅型にも藍型にも縁がなくきてしまいました。

 今年の夏頃から、「次に欲しいのは何?」と訊かれた時、「紅型」と答えました。
 「じゃあ、紅型藍型のどっちが先に欲しい?」と訊かれた時には、選べずに答えることができませんでした。
 (藍型とは、藍色しか使ってない紅型のことです)

 琉球紅型は、沖縄で三宗家と呼ばれる家で代々技術が継がれていますが、現在私がよく見聞きする紅型の作家さんは、その中のひとつ城間家の城間栄順さんと、城間家の婿筋の玉那覇有公さんです。
 (宗家のひとつである沢岻<たくし>家は現在紅型製作はされていないそうです。もうひとつの宗家は知念家です。)
 どちらの方もすでに高齢で、引退も近いと思われます。
 おつきあいする呉服屋さんの趣味でもあり、私の好みでもありますが、私が見せてもらう紅型は圧倒的に栄順さんのものが多くを占めています。

 最初の話に戻りますが、琉球絣に合わせてもらった藍型の帯は、栄順さんの製作したものでした。

 叶うものならあの帯が欲しいと思い続けていました。二年経ってもまだお店にあったその帯地は、知らぬ間に売れてなくなってしまいました。
 しかし、違う生地に同じ柄をつけた帯地があったのでした。
 悲しいことに、なくなったものよりもいい生地が使われているとのことで、値段はそちらの方が高くなっていました。

 そうこうするうちに栄順さんの引退が近いという話しが現実味を帯びてきます。後継者である息子さんのものが出回り始めました。
 紅型で使う型紙も耐用年数があるので、やがて同じ型を使った同じ柄のものはなくなってしまいます。
 同じ型を使ったとしても紅(色)を置く人が違えば、同じ紅型にはなり得ません。紅型は、色だけでなく暈しも入るので、作る人によって皆違うものになるのです。
 後数年で、栄順さんの新しい紅型は出なくなり、市場から姿を消してゆくのだと感じ始めました。
 私は栄順さん紅型に触れることなく終わるのかと思い始めていました。
 それは切ない気持ちでした。

 8月の大きな催事で、私は紅型の着物をあててもらっていました。
 松煙染で淡くグレーに染めた生地に、栄順さんが松竹梅丸文を染めた着尺でした。
 大きな会場でいくつもの部屋がありましたが、そこは紅型の部屋で、あの欲しかった柄の帯地もありました。
 そして、これも憧れの上布がいくつか持ち込まれていました。宮古上布でした。

 栄順さん紅型着尺、帯地、宮古上布の着尺を並べて、呉服屋さんとの戦いの火蓋が切られました。
 激しい戦いで、一時間以上やりとりは続きました。

 その結果として我が家にやってきたのが、この帯地になりまーす。

photo:01



 一昨年から来ている塩沢御召は、黒地なのでなんでも合うのですが、鮮やかなこの帯はよく映えました。
 帯揚げと帯〆は呉服屋さんのお勧めの組み合わせです。

photo:02



 お星様のように見える柄は、パイプウニです。
 少しポップにも見える楽しい柄つけが、栄順さんの特徴のひとつで、私が大好きなところです。

photo:03



 お太鼓を作る段に「まさか袋帯?」と思うくらいにたれが長くてとっても苦労しました。
 次回結ぶ時には、相当テを長くとらなければと今から考えています。
 でも、軽くてきれいなお太鼓になりました。
 正絹ですがさらっとした生地なので、真夏でも使えるのではと話しています。

photo:04



 見る人の目にもよく映えるようで、この日はいろいろな方に着物姿を褒めていただきました。
 このようなものを持つのは正直本当に大変なことなのですが、持てた喜びを噛み締めつつ、がんばっていこうと誓うのみなのでした。