お盆なので… | 風が吹く日も、雨の日も

風が吹く日も、雨の日も

着物と子どもと「おいしいは正義」の日々。街歩きや美術館なんかも好きです。

 お盆と言えば、実家に帰省して墓参り、なんてのが定番なんですが、うちにそんなことは全然ありません。
 両親ともに亡く実家はありませんので、帰省する先がありません。
 お墓は、春に建てたらしいのですが、未だにどこにあるのかすら知らないのでした。
 知る手立てがないこともないのですが、親がいた時分にあまりに毎年墓参りを強制されたことがトラウマになってしまっているので、きっと知っていても参ることはなかったと思います。

 せめてもの亡い人の供養として、手許に残っている沢山の昔の写真を整理することにしました。
 贈答品のタオルの箱にマジックで「写真」と書いて、中に何十枚もの写真が入っているのを引っ越しの度に運んでは押入れにしまいこんでいました。
 落ち着いた長い休みの時に、整理して処分してしまおうとずっと思っていました。
 というもの、私に何かあった時に、子供さんがその扱いに困るだろうと思っていたので、私がちゃんと整理して、古いものは処分しておいてあげるべきという考えがありました。

 タオルの箱を開けて写真を確かめると、裏に昭和と思われる年が記入されているものが結構ありましたので、それを頼りに年代別に分類することにしました。
 集合写真はサイズが違うので別によけました。
 年で二年、学年でみっつ上の兄が幼稚園時代と思われる集合写真に、今はない太陽の塔の大屋根が写っていました。そう言えば、何かの特番でこんなデザインだったと見た覚えがうっすらとあります。
 滅多に大阪に来ることはなかった、母の実家の人達が万博見物に来たと思われる写真もありました。
 この時、私は母のお腹の中にいた筈です。

photo:01



 母の実家である丹後の家の前で着物と羽織を着る私です。
 二歳か三歳の、お正月に撮影したようです。

photo:04



 私の七五三の時に家族でお参りした際の写真。
 よくわからなくて三歳の時かと思ったのですが、七歳でしょう、と友人に言われました。
 なんでそうなのか調べてないのですが、女の子は三歳と七歳でやるんですね。五歳はしないことになってたと思います。

 この時の着物は、母方の祖母が縫ってくれたものでした。
 今もきれいな状態で私の手許に残っています。
 子供さんのお宮参りも、七五三も、この着物を着せました。
 まさに、受け継がれる着物です。
 その次の世代に繋がるかは、今はわかりませんが。

 母も着物を着ています。
 この時の別の写真を友人に見せると、大島だね、と言っていました。
 母の着物のほぼすべてを処分してしまったことが、今頃少し悔やまれます。その時はまだ大島かどうかもわからず、また布としてリメイクする方法が沢山あることも知りませんでした。
 ただ、ただ、母のことを思うと辛いばかりで、そんな気持ちと一緒に沢山の着物を処分してしまいました。

photo:02



 多くの写真は両親それぞれの婚前の時代からのものですが、一部古かったのは結婚式の記念写真です。
 父は七人兄弟の末っ子で、上の兄弟姉妹の結婚式の記念写真がすべて残っていました。
 母の下の妹のものもありました。
 そして更に、両方の祖父母と、そのきょうだいと思しき人の結婚式の記念写真まで残っていました。
 私はどちらの祖父にも会えなかったのですが、写真の中に初めてその姿を見ました。

 婚礼の衣装は、祖父母の頃は花嫁花婿ともに黒紋付きで、両親の時代からは花嫁衣裳が華やかな打掛に変わっていました。
 モノクロで色が判らないものも沢山ありますが、私が結婚式をした時の打掛が、自分の時のものとよく似ていると母が喜んでいたのを思い出しました。

 また、何かの記念に撮影したと思われる、大正十二年十二月に撮影された写真がありました。
 それが、この下の写真です。
 写っているのは多分、若き日の父方の祖父母です。
 祖母はきれいな人だったのだろうなと思ってはいましたが、この写真を見ると祖父母どちらも美男美女でびっくりしました。
 祖父母は丹後の出身で、後に大阪に出てきたと聞いています。
 写真はどこで撮影したのかまでは判りませんが、戦火にも焼かれずに、よく残ったと思います。
 しかし、なぜこの写真が私の手許にあるのかが解せません。
 実は母や兄の小学校の成績表なども同じ箱の中に残されているのです。
 それだけではなく、私が生まれた家で、私が生まれる前から使われていた調理器具などが今も我が家では現役で活躍し、その後に兄の為に用意された机や、父が自分の為に買った本棚、母が選んだ大きな食器棚も、みんな私の家の中に納まっています。
 私は今や一族から隔絶されて、家族とは切り離されてしまったはずなのに、今も昔と変わらずに、古い家具や調度に囲まれて生活しているのでした。

photo:03



 二日程を費やして、昭和40年代から50年代までの10年余りの写真を整理しました。
 他に、8ミリフィルムなども何本かありました。
 処分するつもりなのに、どれも捨てることができませんでした。

 それよりも後の写真は、家族関係が徐々に悪くなる過程にあるもので、とても手をつける気にはなれませんでした。
 特に、母が元気でいた頃のよく知る姿を映したものは、箱を開けてもすぐにまた戻してしまいました。
 そんな写真を整理したとしても、誰がそれを見ることがあるのか、今の私にはわかりませんでした。

 昭和40年代から現在までの私が過ごしてきた時代を見渡すと、なんて大きな変化があった時代なのだろうと思います。
 海外渡航が非常に珍しかった時代から、ネットを通じて世界中の人とコミュニケーションができる時代になっています。
 母が生き辛かった理由はいくつかありますが、この大きな変化についていけなかったことも、そのひとつに違いないと思うのでした。

 小さな私と、私を囲む家族親戚の姿を見て、私は愛されていたことがあったのかもしれないと少しだけ思うことができたような気がします。