昨日の夜に子供さんといろいろお喋りをしていた時に、私は子供さんに「期待してないから~」と言ったのが気になったと後から言ってきたので、そのもう少し詳しいところを説明しました。
特に深い意味があった訳でもないのですが、傷つけたのなら申し訳なかったなと思い、ちょっと慎重に話しをしなければと思いながら。
子供さんも「そう言ってもらって嬉しいけど、やっぱりちょっとがっかりしてしまって」と言うので、なんというか、こういうちょっとしたひっかかりは大事にしなければと思ってしまうのでした。
私は子供さんにかなり大きな期待をしているのですが、小さな「期待はしていない」というのが正確な表現です。
大きな期待とは?
子供さんがしあわせな人生を自分で選んで生きることです。
小さな期待とは?
学校に行っていい成績をとるとか、いい学校を受験して合格するとか、名の知れた会社に就職して高い給料をもらうとか、みんながうらやむような男性と結婚するとか、そう言ったことです。
どちらにしろ私は子供さんがそこに生きてにこにこ~っとしていればOKで、一緒に食卓についてご飯を食べてくれて、「おいしい」と言ってくれることでGreate!です。
身近で悲惨なことをいくつか見てきたので、生きてるだけで儲けもん、命があれば大丈夫と思っているところがあり、また子供さんは過去に自傷を繰り返していたし摂食障害もあったので、親として子供に何を望むかを突き詰めて考えざるを得なくて辿り着いた結論がそれなのです。
何もないところから、瀕死で小さく生まれてきた子供さんが、元気にここにいて生きてるんだから、それ以上に何を欲張るのかと思うのです。
でも、ひとつだけ欲張るとしたら、子供さんが子供さんの人生を、ちゃんと自分で歩んでいくことです。それが自分のしあわせと受け止めて、好きな方向に自分のペースで向かっていって欲しい。
子供さんにはそうする力がちゃんとあって、それをしてくれるだろうという期待をしています。
これだけが、親として手放せない、子供への期待です。
もし子供さんが茨の道を選び、とてもしあわせそうに見えなくても、子供さんが選んだ人生を生きることに手も口も出さない弁えは大事だと思っています。
子供さんは人間として、挑戦し失敗し多くの経験をする基本的な人権を持っていて、それはどんな時も尊重されなければならないと考えるからです。
失敗もケンカも事故も病気も、すべての経験には意味があります。
糧にならない経験はありません。
子供さんがこれからのまだまだ続く長い人生で、いい、悪いを問わずいろいろな経験をして、生きていることを実感して、最終的に「しあわせだった」と思えるように生きて欲しいなぁと思います。
もしかしたら、その言葉を私は聞くことなく逝くかもしれなくても、その時はまだ子供さんが人生の途中だと理解して黙って去ることになるでしょう。
私はその時に自分が「しあわせだった」と思えたら、それ以上の欲をかいてはいけないのです。
子供さんは私よりもずっといい人生を生きることを期待しています。
この期待は裏切られないと信じています。