昨年末に私が着物の着付けを習った経緯など記事にしてみましたが、今回はその続きです。
秋に着付けを始めて、翌年の4月頃まで習っていました。
割と大きな着付け学校で、着付け師を養成するようなところでした。
とにかく初めてのことなので、着付け学校にどんな種類があるかもよくわからず調べないままに新聞広告を見て入学を申し込みました。
結果的に言うと、私にとっては費用がかかり過ぎた割りに期待した内容ではありませんでした。
私は着付け師を目指していた訳ではなく、自分で自由に着物を着る技術が欲しかったので、学校の教育方針に合ってなかったのです。
最初は三ヶ月の予定で習い始め、それでは外に着ていけるほどにはならないと言われて更にもう四ヶ月習いましたが、通っている間に必要な授業料以外の諸費用の多さ、時間を都合するしんどさ、授業の果てのなさに嫌気が差してしまい、その次の過程には進みませんでした。
着付け教室を辞める直前に、偶然に入った心斎橋の呉服屋さんが、今お世話になっている呉服屋さんです。
過去に記事にもしましたが、ここで初めて自分で着物を誂えました。結城紬です。
ものの本によれば結城紬は日本国内の織りの着物では最高級品とのことなので、初めての誂えがそれということは考えられないことです。
きれいな花を描いて散らしたような染めの着物を「やわらかもの」と言うそうですが、こちらが私が知っていた着物で、京友禅などに代表される着物です。親に作ってもらった振袖や訪問着はやわらかもので染めの着物です。
それに対して結城紬は織りの着物、かたい着物になります。織って柄を表現するもので、生地がしゃきっとしているので「かたい」と言われるようです。
織りの着物に対して全く認識がなかった私ですが、入った呉服屋さんは持っている商品の大半が織りの着物というお店でした。
かたいものであれ、やわらかいものであれ、着物をつくる技術はそれを継承していくという点では大変な危機に陥っているようです。
それは、呉服屋さんのお話でも聞きますし、ソーシャル・ネットワークを通して生産者や販売者の方からも聞こえてくる話です。
時間と手間がかかる、確実な儲けになりにくい、そんな仕事が多く後継者がとても少ないのです。
また、手間をかけた着物ほど高級品になるので、売れない、着てくれる人がいない、そうすると作っても売れないということで生産量が減ってしまう。悪循環ですね。
私が縁のあった呉服屋さんは、手機で織る着物の技を広く伝えて着てもらうことを常に考えておられるようなところがあって、私はお店の方から織物の糸の作り方から丁寧に説明を受けた上で、貴重な織りの着物である結城紬を進められ、買ってしまったのです。
織りの着物の有名どころということで、結城紬も紅花紬も紬というものはいっぱい置いているお店ですが、実は一番力を入れているのが沖縄のものだということが程なく判りました。
沖縄は日本の南端にある島々です。昔は琉球王国という別の国でした。
小さい島ばかりなので、米が育ちません。税金として、布を織って納めていました。その布も原材料や織り方の種類がとても沢山あり、唯一の染めは紅型(びんがた)といいますが、それも独特の染めで鮮やかです。税金として納めるのですからそれを生産するのはしんどいことですが、その技と文化は凄いものでした。
それが太平洋戦争でぷっつりと断絶します。布を織るどころか生きるか死ぬかの時を経て、その後は米軍に占領されてしまいます。
いくつかの織りの技法はその時に途絶えてなくなってしまいました。
運よく後継者によって復活したものもあります。でも、今はまた次の世代に繋げるかどうかの危機にあるようです。
そのような歴史を呉服屋さんに教育されたところで、私は深い藍色の琉球絣(りゅうきゅうかすり)に出会い、進められることになります。
沖縄の織りもの。そう、沖縄です。
父の死以来、私の中にひっかかっていた沖縄が、不思議な形をして私の前に現れたのでした。
職人さんの見事な手技にも感動しますが、やはり「沖縄」「太平洋戦争」というキーワードに引き寄せられました。上手く説明できませんが、何か確かに縁があるような気がしたのです。
母親の影響で着物を着始め、父親の影響で琉球ものを着る、なんだか一貫性のあるというか、当然の流れのような気がしてしまったのです。
それに、見せられたものはそれは素敵な織物でした。
そんなこんなで私は見事な琉球絣を買うことになり、それは大層な買い物になってしまいました。
えぇ、勿論子供さんを心配させてはいけないので秘密です。
秘密はそのひとつでは終わらず、さらに上をいくものをもうひとつ購入することを決めてしまいました。
バカな、ありえない話しだと頭のどこかでは思います。
貧乏人が、こんな買い物をするなんて本当にどうかしています。
その為に家計はさらに逼迫しますし、自分も子供にも大きな負担がかかるでしょう。
でもね。
でもね。
お蔭で人生、変わりました。
変わらざるを得ませんでした。
これがなかったらストレスをくだらないキリのない買い物や飲食で紛らわす悪癖は直らなかっただろうし、本気で家計を見直すこともなかったと思います。
家を引っ越す決意も出来なかっただろうし、仕事は嫌気がさして簡単に辞めていた可能性がとても高いか、辞めたいとずーっと思い続けて苦しみもがくことになっていたと思います(いや、今でも辛いことは多いですが…)。
大きな買い物をしたからこそ、生き方を真面目に考え直し、変えるべきところを変え、我慢すべきところはして、慎重に考え、でもちゃんと満足と納得がいくようにしていくことを目指して、出来ると自分を励ましていくことが出来ています。
多分後5年くらいはずーっと大変で、5年するとひとり親として利用出来る制度は使えなくなってしまうので、それ以降も苦労は続くと思います。
でも、買い物の負担と思春期の子育てのしんどさは、この5年が勝負です。丁度時期が一致しているのです。
私は着物を自分の支えにして、この5年を乗り切るつもりです。
このバカな振る舞いも、母と同居して親戚と付き合いをしていた頃、離婚せずにいた頃には考えられなかったことで、今の自分だから出来たことです。
これが大きな失敗になるか正に支えとなってくれるのか、それは私が気をしっかり持って生活していけるかにかかっています。
頼れる親きょうだい親戚もなく、子供は幼く手がかかり、自分で生活を背負って生きていく、自分が納得いくような仕事を求めて努力を続けていく、その為に、「着物」という重しを背中に載せて、私はがんばるつもりです。
弱音もたっぷり吐き出して溜めないようにしていく所存ですが、5年間軸だけはぶれないようにします。
思い過ごしかもしれないけれど、自分が惹き付けられて、支えにしようというものに出会ったことは、恵みだと思いたいのです。
それを恵みの良運とするか悪運とするかは、この5年にかかっているのです。
そんな訳で、後5年、関係者の皆様は生温かい目で私の日々の奮闘を見守っていてくださいね~!!!