私のお仕事はいわゆるシステム・エンジニアなんですが、なかなかこの肩書きがしっくり来ずに困ることが多い日々でした。
私が就職活動をしていた時は、バブル景気の最後の年でした。
男女雇用機会均等法が施行されて日が浅く、女性が就職する際には男性並みに働く「総合職」と、簡単な事務が中心の「一般職」のどちらかを選ぶことになると聞かされていました。
今思うと私は自分の性にある種のコンプレックスがあったからでしょうか、そのどちらかを選ぶことが難しかったのです。
その選択から逃れる手段として、私は「技術職」を志向しました。
生家が印刷の自営業をしていたことと、電気屋さんのパソコン売り場でアルバイトをしていた時にソフトウェア開発の可能性をちらりと聞いたことで、印刷業とソフトウェア開発業に絞って就職活動をしました。
そして、最初に内定の出たソフトウェア業をしている本町の会社にあっさりと決めて就職活動を早い時期に打ち切りました。
翌年4月に入社して、大阪支社に入った新入社員の中からふたりだけC言語でパソコンのソフト開発の部署に配属され、他は全員COBOLという言語で大きな汎用機のソフト開発の部署に配属されました。
C言語チームに行ったふたりのうちのひとりが私でした。
今でこそPCはPCでしかない時代ですが、当時は日本製のNECや富士通のパソコンと、アメリカで開発されたPC/AT互換機というパソコンがありました。
今あるパソコンは当時で言うPC/AT互換機です。日本独自規格のものはほぼ姿を消しました。(多分)
4月入社の時点でバブルは弾けていて、8月頃には汎用機チームの何人かが仕事がなくなり出社しても技術書に目を通すような状態になります。
秋には自宅待機が始まりました。
C言語チームはプロジェクトがいつも過熱状態で、そんな中でも残業に継ぐ残業。
私は新人過ぎてなんでそんな状態なのかも、どうすればいいのかもよく判りませんでした。
年が明けてC言語チームの私にも自宅待機の命が来て、程なくリストラが行われました。
はい、リストラされました。
二ヶ月ほどまた就職活動をしました。
C言語が出来るということで、次もソフトハウスに就職が決まりました。
でも、三ヶ月で退職しました。
すでに、私の社会の放浪は始まっていました。
その後、前社で出向していた先で派遣社員として仕事を続け、一年後に別のソフトハウスに就職し、そこでレガシーな仕事ばっかりだし事務の人にめちゃめちゃ意地悪されて友人のソフト会社に移籍。
不景気でたまらんから外注になってくれと解雇され、やむなくフリーランスに。
仕事がなさ過ぎる時はあべの近鉄百貨店のお中元のバイトに応募したりしましたが、何故かぎりぎりのところで仕事が舞い込みます。
個人で請けたり、契約社員として通ったり(三ヶ月くらい)、なんだかいろいろしたのですがいつも同じ仕事。
システム・エンジニア。
母親には常にその仕事をすることに反対されていました。
これは、仕事をする上でかなりキツいトラウマを残しているのではと思います。
傍で常に「なんでそんな仕事を」と言われ続けましたし、女性が少なくキツイ仕事だけにしんどい思いをすることは多くありました。
なんでずっとシステム・エンジニア?
とっても簡単に言うと、後ろ向きな感じですが、辞めるきっかけがなかったから。
もう仕事は来ないだろうと諦めた頃に仕事が舞い込む。
その繰り返しでした。
勿論、嫌だと心底思っていれば続かないので、この仕事の面白さは判っているつもりです。
でも、しんどさとか難しさもよく判っていました。
あまり何もしたくない、専業主婦でいい、子供ももっと生んで楽に楽しく・・・そう思っていたのは確かですし、今でもそう思うところはあります。
自分の中で、仕事の面白さや充実感を感じるところと、そうでないところが分裂して同居しているような感覚があります。
自分が分裂していることで、また別の辛さが常にあるんだろうなと思います。
しかし、結局のところ私は来た仕事を引き受け続け、今に至った現実を大切に抱きとめることにしています。
運命とか悪運とか言い方はいろいろあることでしょうが、現実に私はもう沢山の実績を抱えています。
それを自分の財産としなくてこの先の人生をどう生きるのか思いつきません。
その財産をどう査定するかはまた別の難しさがありますが、少なくともその存在を否定することは出来ません。
私の社会人になってからの大半がそこにあります。
そんな訳で全然凄い仕事人でもなんでもないのですが、私はシステム・エンジニアです。
今年も来年も、きっとおんなじです。
もっと別の何かになれる可能性も残しつつ、やはり私は技術者でありたい。
働くということはどのように定義されるのでしょうか。
積極的な姿勢でそれに向き合わなかった為に、今頃そんなことで考えたりしています。