1972年1月15日~17日 寺岡恒一への総括要求の根回し |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

(寺岡(左)は 「総括がよくわからないんだよね」 と打ち明けたが、坂東(右)は公式見解で逃げた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真      連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

■1月15日 「寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」(山田孝)

 1月15日の夕方、山田孝氏が戻ってきた。森氏はさっそく山田氏に寺お菓子に対する厳しい総括要求の必要性を話した。山田氏はすぐ了解し、「尾崎ら4人の死体を埋めに行った時のことで、寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」といい、さらに、「小嶋の死体を皆に殴らせたことは、大いに問題だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


寺岡は「山田さんは非常に問題だ」と批判した ことがあった。


■1月16日 「寺岡氏の言動をすべて分派主義として否定的に解釈した」(永田洋子)

 森氏、私、坂口氏、山田氏で寺岡氏の問題をまとめることになったが、それは寺岡氏のそれまでの言動をすべて分派主義として批判的、否定的に解釈していくものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月16日 「アラ探しをするが如く寺岡君の問題点を列挙した」(吉野雅邦)


(吉野は寺岡が批判されていることがわかると、寺岡の問題点を列挙した)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 吉野雅邦 顔写真

 16日の午後、吉野・寺林が帰ってきた。新たなベースに適当な場所は見つからないということだった。


 そのあと、森氏の指示で、私は吉野氏に寺岡氏への激しい総括要求の必要性について話した。続いて、森氏はさらに詳しく説明した。吉野氏は、寺岡氏への厳しい総括要求の必要に躊躇することなく同意した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 私が赤木山の新ベース調査から戻ったとき、(中略)、突然永田から「ネエネエ、寺岡のことどう思う?」と寺岡君について意見を求められたのです。

 永田は興奮し、身を乗り出し私を立たせたまませき込むように聞いたのですが、何のことか判らずキョトンとしている私に永田は、さらにタタミかけるように「寺岡が、あなたから坂東さんに話し相手を変えてるでしょ。気がついてる?気がつかなきゃダメよ。あれ何でだと思う?」というようなことを説明ともなく質問をぶつけてくるので、私はなんとなく、これは寺岡君が批判されているのかもしれないという気がし、安堵しはじめたのです。

 はじめは、永田の質問をいわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクしていたのですが、次第に自分ではないようだと思いはじめるとともに、永田から寺岡君批判への同調を求められると完全にそれに迎合し、アラ探しをするが如く寺岡君についての「問題点」を列挙していったのです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」1983年1月23日付 吉野雅邦の手紙)


 この吉野の証言は、多くのメンバーが総括にかかわったときの心境と同じである。なぜなら、総括に対する態度を観察されて、次に総括にかけられる者が選び出されるからだ。


 こうして寺岡氏への批判は、彼の全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判に発展してしまったのである。この批判は、事実関係を少しでもまじめに検討すればたちまちひっくりかえってしまうものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それなら、寺岡をよく知る永田が、擁護してもいいと思うが、永田は、「メチャクチャな批判」 をそのまま受け入れ、寺岡に怒りを感じていたのである。


■1月16日「総括ということがよくわからないんだよね」(寺岡恒一)
 そのとき、日光方面へ坂東と共に調査に行っていた寺岡は、どんな様子だったのか。


 寺岡同志は調査中、一貫して元気がありませんでした。山岳での調査活動をやっているときには比較的元気ではあったが、夕食後、テントの中で沈み込んでいることが多く、何か話しかけるのも悪い感じがするくらいでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 寺岡は森から、「調査中に総括しておくように」といわれたため、考えこんでいたのである。


 しかし、いよいよ山岳へ戻るという日を明日にひかえる中で、どうしても話したいという感じで、彼のほうから質問されたのです。
 「S同志との離婚問題についてどう考えたらいいんだろうね。それから総括ということがよくわからないんだよね。坂東さんはどう考えていますか」といわれたのです。
 強気な人で、断固としてやっていたと思っていた同志のこの「弱気な」質問は、一瞬信じがたいものでした。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、女性差別の問題とか、個々人の革命化が必要とか、公式見解を述べ、意識的に問題を鮮明にすることを避けた。寺岡も「そうだよね」といったきり、それ以上何もいわなかった。


 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東がぐっすり寝込んでいるとき、寺岡が朝食の準備をしていた、という事実は、あとで重要な意味を持つので、記憶にとどめておきたい。


 坂東は、常にナンバー2として、リーダーの公式見解しかいわないようだ。榛名ベースにやってきたとき もそうだったし、赤軍派時代、ジョークを言い合っていた植垣に、「こんなことをやっていいのか」と聞かれたとき もそうだった。


 ちなみに、手記「永田洋子さんへの手紙」にしても、アラブへ行って、重信房子の配下になってから書いているため、総括内容も言葉づかいも、重信の公式見解を聞いているような印象である。


■1月17日 「坂東はやはり信頼できるな」(森恒夫)

 17日も、朝から午後にかけて寺岡氏への厳しい総括要求についての話が続いたが、森氏は、「あと、坂東をオルグしなければならん」といっていた。
 夕方、坂東氏、寺岡氏、植垣氏、杉崎さんが帰ってきた。山岳調査にいった人はこれですべて帰ってきたことになる。坂東氏はすぐ中央委員のこたつに来た。森氏は坂東氏に頭を寄せて何か言った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が坂東に言ったことは、「永田洋子さんへの手紙」では「今日は、寺岡同志の厳しい総括要求を行う」となっていて、坂東はすぐに「いいよ」と答えた。ところが坂東の供述調書では、違っているらしい。


 さらに「供述調書」によると、(中略)、森君は、
「きょうは寺岡に厳しく総括要求する。すでに問題点は中央委員会で詰めてあるし、新党の中央委員は総括できなければ死刑もやむを得ないというぐらい厳しくやることについて意思一致している。場合によってはナイフをつきつけるぐらい厳しくやることが必要なのだ。問題はこれまで出されている官僚主義の問題であり、分派主義の問題だ」と言ったのだという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 「分派主義」 については意見一致していたといっていいが、「死刑」や「ナイフ」は申し合わせた事実はなく、森の頭の中にあっただけである。


 すると、森氏は坂東氏に、「寺岡は調査中に逃げようとしなかったか?」と聞いた。坂東氏は、「常にそれに気をつけ2人でいるようにしていたから、そういうことはなかった。寺岡が駅のトイレに入った時には、出てくるまでその前に立って待っていた」と答えた。
 森氏は、「そうか」といって嬉しそうに笑い、まんまるい目をして私たちに、「坂東はやはり信頼できるな。何を任せても大丈夫だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、坂東は、見張りをいいつけられたことさえ忘れていたという。


■寺岡はすぐに指導部のコタツのところには行けなかった
 森は、執拗に寺岡の活動に分派主義のレッテルを貼り、幹部に根回しを続けた。永田は森の解釈を聞くたびに感情的になるから、2人のコンビネーションはまことに始末が悪い。この間、坂口はどんな発言をしたのか、何を思っていたのかはよくわからない。


 寺岡は、出かける前に言い渡された3つの問題について悩んでいたが、留守中、状況はすっかり変わってしまっていた。まさか、分派主義のレッテルによって活動のすべてが否定されるとは思ってもいないだろう。


 総括を要求したときから、森の脳内ものさしが変化しているので、寺岡がどんなに頑張ったところで、総括を達成することなどできっこないのである。

 寺岡は、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。