1971年9月15日 「連合赤軍」が武闘宣言 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年9月15日「連合赤軍」が武闘宣言(朝日)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-09-15 連合赤軍が武闘宣言


 9月14日に開催された京浜安保共闘(革命左派の表の組織)と革命戦線(赤軍派の表の組織)の合同集会の記事である。「連合赤軍」の名前がはじめて世に出た日であった。


 例によって左翼用語でいっぱいの基調報告が行われた。そのあと、当面の方針として、「建党-建軍-遊撃戦を中央ゲリラを通して全国化すること、三里塚闘争では三里塚ゲリラと東京ゲリラの結合をかちとり、引き続く沖縄派兵阻止闘争では東京ゲリラ戦線の形成と沖縄の結合による国際的ゲリラ戦線の形成をかちとること」

を主張した。


 こうした方針に何ら反対ではなかったが、中央軍といっても私たちの部隊しかいないなかで、いったいこれだけの闘争を行える力量があるのだろうかと思った。(中略)進藤氏と「相変わらず、いうことだけはでかいなあ」といって笑いあった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 赤軍派の坂東隊は9月13日から東京に戻り、殲滅線のための交番調査を行っていた。このころから植垣は森の世話係になり、しばらく失意と消耗の日々を送る。9月19日には行方正時、山田孝の中央軍入りが伝えられた。


 革命左派では合同集会をめぐって問題が生じていた。


 京谷氏は非常に長い川島氏の電報を持ってきた。それは、9・14集会のステッカーが「統一赤軍結成集会」となっていたことをあげて、名称変更したと報告した私たちがうそをついてだましたと繰り返し罵倒し、今回のことで納得のいく対応がなければ脱党するというものであった。

 私はこれを読んであきれてしまった。それは、基調報告やアッピールを無視し、ステッカーの印刷だけでだましたと怒り、大騒ぎしてきたからである。(中略)

 私は川島氏に心底からの怒りを感じ、川島氏の思想には思っていた以上に問題があると思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派は、赤軍派との共闘に向け、カンパを集めていたが、永田は支援者に「秘密をばらす」などと恫喝し、強引な手法だったようだ。秘密をばらしあったら困るのは永田のほうだと思うが・・・。


 永田は、こうした経緯を経て獄中の川島への反発がつのり、より赤軍派に傾倒し、森に理論的支柱を求めていくようになった。「われわれ」になる日が近づきつつあった。


■1971年9月16日 三里塚闘争 成田で機動隊3人死ぬ(朝日・夕刊
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 この事件は連合赤軍が起こしたものではないが、当時を知る上で掲載しておく。


 三里塚闘争とは成田空港建設反対運動のことで、成田闘争ともいわれている。当時、クライマックスを迎えていた。立ち退かない農民たちを強制的に排除する「強制代執行」に、学生たちは怒りを爆発させ、3人の機動隊員をめった打ちにして、死亡させた。


 三里塚闘争は、もともと地元の農民たちの運動であったが、各セクトが共闘し、フラッグシップ的な運動になっていた。しかし、過激さがつのり、一般学生たちの間には「やりすぎ」の声もあがっていた。農民たちは、共闘してくれることには感謝していたものの、学生たちの自己目的化した行動には複雑な思いを持つ人たちもいた。


 9月21日の朝日新聞には、「農民の揺れる心 学生との間にもかげり」と題した記事が掲載されている。


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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-09-21 三里塚闘争 揺れる農民の心


 植垣の手記からも、殲滅戦自体が目的化し、セクト間の主導権争いがあったことがうかがえる。

 私たちは非常なショックを受けた。「先を越された」という気持ちだった。というのは、われわれこそ最初に殲滅戦をやる決意でいたからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 過激派と称された各派は、思想よりもむしろ決意が重視される傾向にあった。それが連合赤軍においては、死をも恐れない決意が要求されることになるのである。