銃砲店襲撃事件が発生してから、新聞は犯人や銃の所在や、見つかったアジトの様子などを連日報じた。あふれかえる記事の中からピックアップしておく。
■1971年2月17日 「電報です」土足で侵入(朝日・夕刊)
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犯行の手口に関する記事。永田も坂口も実行メンバーでないため手記がなく、実行メンバーの行動は新聞の情報に頼るしかない。
■1971年2月17日 尾崎逮捕の様子(朝日・夕刊)
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尾崎康夫と中島衡平が逮捕されるまでの状況の記事。
連行されたとき、頭からすっぽりかぶせられた上着をはねのけ、「俺の写真をみんなにとらせる」とは勇ましい。
■1971年2月20日 秘密アジトを小山で発見(朝日)
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永田らは近所にばれないように注意をはらっていたつもりだったが、実際のところバレバレだったようだ。
・・・「西田」と名乗る男は若い女性を1人を伴って現れ、家賃7千円、礼金2万円、敷金1万4千円などを支払い、このアジトに住みこんだ。若夫婦を装って生活を始めたが、近所の人の話では、入居後しばらくしてから5,6人の男たちがひんぱんに出入りするようになり、日中はこれらの男たちと一緒に外出し家をあけたきり。暗くなってから会議を開いているのか議論する声が聞こえた。その異様な雰囲気にみんな首をかしげていた。
紙面右側に「最高幹部を逮捕」の見出しがあるが、「人民解放軍遊撃隊のかげの指導者」とされている。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)
■1971年2月28日 10日ぶりに銃・実弾発見(朝日)
永田らが長岡を出て北海道に向かったのが21日だから、わずか6日後には長岡アジトが発見されていた。すんでのところで逮捕を逃れたが(ここで逮捕されていたほうがよかったのだが)、持ちきれない銃や散弾をあとで取りに来ればいいと考えて、残しておいたのがますかった。指紋照合でメンバーが割れてしまったのである。
それにしてもなぜ新潟・長岡のアジトまで発見できたのだろうか。警察の捜査力恐るべしである。
■1971年3月1日 発見されたアジト(朝日)
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■1971年3月2日 永田・坂口・寺岡・雪野 指名手配(朝日)
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指紋照合でメンツが割れ、ついに永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・雪野健作の4人が公開手配された。
■1971年3月2日 幹部奪還を計画(朝日・夕刊)
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捜査が入ることを警戒してすぐさま長岡アジトを去ったのはよかったが、幹部奪還計画のメモや、川島のいる横浜拘置所の周辺を撮影したネガが残されていたのはいったいどうしたことだろうか。
■1971年3月6日 吉野雅邦指名手配(朝日・夕刊)
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「新潟県長岡のアジトから指紋が見つかり、タマを運んだとみられるリュックに『吉野』と名前が書いてあった」とは、なんとも情けない。
■1971年3月12日 瀬木政児指名手配(朝日)
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これで真岡銃砲店襲撃に関係した残りの6名が全員指名手配された。
■1971年3月14日 京浜安保と赤軍派 危険な共闘の背景(朝日)
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■1971年3月17日 中島・尾崎全容自供(朝日)
記事中の実行メンバーとリーダーは誤り。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)
世間が大騒ぎしている中、メンバーは北海道に渡り、札幌のアパートに潜伏していた。
女1人(永田洋子)と男5人(坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児)で共同生活をしながら次の展開を考えていた。
1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)
1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行