1972年3月20日 真岡猟銃強盗は川島奪還狙う 永田が自供 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■川島豪の奪還狙う 真岡での猟銃強盗 永田が自供(朝日)
 京浜安保共闘の真岡での猟銃強盗は、横浜地方裁判所を襲撃して公判中の同派議長である川島豪(30)を銃撃の中で"奪還"するためにおこなわれたものだった。この計画のうち銃砲店の襲撃は成功したが、その直後、尾崎、中島の乗ったライトバンが東京・赤羽の非常線を突破しようとして警視庁に逮捕された。この逮捕者を出したことがきっかけとなり、各地のアジトが摘発され、計画メモのファイルまで押収されたため川島奪還計画そのものが未遂に終わったという。



 京浜安保共闘の議長である川島は獄中から永田、坂口に「自分を奪還せよ」と指令を出す。永田たちは奪還命令を受けてどうしたものかと考えるが、さしあたり実行に移したのが真岡の猟銃強盗だった。この事件をきっかけに、当局の大捜査が始まり、群馬→新潟→札幌と逃避行を続けるが資金に困って赤軍派と接触し、山岳へ後退していった。この時点では、毛沢東の「鉄砲から政権が生まれる」という理論を実践したわけではなかったのである。


■貝のまま坂東ら(読売)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-20 読売 朝刊15


 坂東は、差し入れは一切拒否するものの「中野署員の"お古"」はOKらしい。「権力からタバコをもらってはいけないが、灰皿に捨ててあるのを拾ってすうのはOK」(森・永田)と同じような理屈だろうか。


■密告恐れ向山、早岐捜させた 永田が自供(読売)

 (この記事も上の新聞画像を参照) 

 この記事によると、永田は「向山、早岐を捜させ、その後殺害を知った」と自供したようだ。実際には永田、坂口、寺岡の協議により事前に殺害を決定し実行に移した。


■明治公園の爆弾事件ですでに両派共闘 青砥ら自供(朝日)
 植垣、青砥が「同事件には京浜安保共闘も関係し、同派幹部・寺岡恒一も現場にいた」と自供した。中京安保共闘の少年兄弟も「京浜安保共闘の学習会で明治公園の爆弾闘争について教訓や反省を聞かされた」と自供している。さらに少年兄弟は寺岡が榛名山アジトで「死刑」に処されたとき、森ら幹部から「明治公園の爆弾事件で使おうとした爆弾2個のうち1個がしめって不発に終わったのはおまえの責任」というような意味の"総括"を受けたことを新たに自供しており、これらのことから寺岡が事件と重要な役割を果たしていた、と断定した。


 明治公園の爆弾事件に京浜安保共闘の寺岡が関与していたとは考えにくい。永田の著作にも以下のように書かれている。


 6月17日に、明治公園で機動隊のなかに爆弾が投げ込まれ、多数の機動隊員が重軽傷を負ったというニュースを知った。これにたいして、私は「これは赤軍派がおこなったものと思う。こういう闘争は赤軍派ぐらいしかできない」といった。坂口氏はこれに反対し、強い口調で「ノンセクトか黒ヘルがやったのだろう。武装闘争は赤軍派だけでなく、いろいろなグループや人が行うようになっているのだ」といった。しかし、私の主張も坂口氏のそれもどちらもそれほどの根拠があったわけではなかった。(「十六の墓標(上)」)


■民間人殺害も計画 アジト建設目撃の2人(朝日)
 迦葉山アジト建設のとき、奥沢が自分の本物の免許証を落とした。たまたま犬をつれて猟に来ていたAさんは免許証が落ちていたので拾い、問題のテント200メートルほど手前に来たところ、テントの中から1人の男がはだしででてきて手渡した。Bさんもたまたまテントを見つけたとき「何のためにこんなところにいるのか」と聞くと「群馬大の学生だが、野鳥の研究にきている」と男たちは答えた。こうした状況から2人を殺害しようと計画、5,6人ずつで沼田市内に行き、2人を探したがみつからなかった。奥沢は危うく「総括」の対象になりそうだったが、他に運転のうまいものがいなかったため、とくに例外として許された。


 「はだしの男」とは吉野。このとき森、永田、坂口はこの場にいなかったので、吉野が中心となって「もし警察が来たら殲滅戦を行なってこの地を死守する。その際、猟師も来たら警察の一味とみなして殺ってしまう」ことを決めたという。これを聞いた森は激怒する。


 森君は、猟師を殺ってしまうことを特に問題にし、「極左だ!」と叱り飛ばすように言った。そして、「これは党と人民を対立させ、党建設を根底から破壊するものだ。労内の矛盾、共産主義化の闘いの主観的な人民への押しつけによるテロリズムだ。そもそも人民を敵視する非プロレタリア的なものだ」とも言った。私は、森君の批判に同調した。吉野君は大きなショックを受け、このあと急に自信を失っていく。(「続・あさま山荘1972」)


■結婚は幹部が強制 「組織固め」と夫婦交換も(朝日)
 これまでに得た自供によると、昨年12月に赤軍派と京浜安保共闘の幹部間で、新党の連合赤軍づくりの話し合いが終わった直後、森恒夫と永田洋子は新たに結婚宣言をし、兵士クラスの者にそれまで永田の内縁の夫で一時いっしょに住んだこともある坂口弘が披露し、「組織のために祝福する」と永田の夫の座を森に譲ることを明らかにし、全員の賛成を受けた。

 このあと森は赤軍派の坂東に京浜安保共闘の大槻と結婚するように命令し、公認された。さらに坂東は京浜安保共闘の吉野と金子に結婚を命令した。また永田は伊藤(22)に自分の"後任"として坂口の妻になるよう命令したという。当時、坂口は中村愛子(23)と親しく、伊藤は他の男と親しかったので、これを不満としながらも、表立って抵抗できなかった。

 このような結婚命令、宣言は幹部の間でのみ認められていたもので、兵士の間にはまったく"権利"がなく、その差別は厳しかった。兵士クラスではそれまで親しかった加藤と小嶋が真っ先にリンチにあって、ついに殺されてしまったのをはじめ、法的にも夫婦だった山本順一と保子もアジト入り後は分断された。

 このような一連の自供について捜査当局は赤軍と京浜安保共闘の連合、統一が男女関係の結びつきでもっとも大きく裏打ちされ、森と永田の結婚はその象徴だった。理論上の統一は希薄で単に相手の考え方や持っている銃や金を尊重するという妥協だけで成立していたものとみられる。


この記事は訂正するのも難しいほどのまったくのデタラメ。


■その他の記事
・連合赤軍共同墓地に子供連れも。浅間山荘には車千台、三千人が訪れた。(朝日)
・森ダンマリ、永田素直に(朝日)

・京浜安保共闘は赤軍派に銃一丁15万円で売り渡していたことが判明。(毎日)