人格とは……(しきい値について) | 稲葉紳一のブログ

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様々な学びをサポートします。項目が、学び、青春、給食・栄養、中学1~3年の学習内容、自然観察、等に分かれています。各項目それぞれに学びがあると思います。

 人格教育という言葉がありますが、自分が以前執筆した書籍の中に以下のように書いています。(若い先生方への100章 文芸社)

 もともと「しきい値」とは、科学用語で、「ある刺激によってある反応が起こる時、刺激がある値以上に強くなければ、その反応は起こらない。その限界値のこと」とあります。


 この言葉は、教育面でも使うことができると思います。つまり「ここまでは許されるだろう」という人間の思考基準に相当します。この「しきいの値」は、それぞれ人によって違うし、同じ人でも置かれている状況によって変化します。例えば、ある歩行者が小さな交差点に来た時、車も通ってない状況だったり、夜遅い時間だったりすると「誰も見てないから…」とか、「急いでいるから…」、「誰にも迷惑をかけないから…」、「他の人もやっているから…」という理由付けによって、普段は信号をしっかり守っている人でも信号を無視して渡ってしまうというものです。
 

 ルールを守らなければいけないことは皆それぞれに理解しています。しかし「このぐらいは許されるだろう」というように基準が甘くなってしまうのです。物事の良し悪しは、その場にいる人間の許容出来るしきい値によって決まるのです。
 

 学校等での集団生活では、この「しきい値」を下げないようにしていくことが重要です。前述のような理由付けを言い訳にして甘い判断基準にならないように、また、誰も見ていないからと「ずるい人間」にならないように支援していく必要があります。
 

 さらに言うなら、世の中の大人の世界を見ると、この「しきい値」の低い人たちが増えてきています。交通マナーにしかり、様々な場面でのモラルの低下は嘆かわしいものがあります。生徒達には、「そのような大人も一部いるが、みんなは、そんな大人にならないでほしい」と願いを伝えていきたいと常に思っています。日本中の教育現場で、そのような指導や道徳教育が浸透していけば、十年後、二十年後の世界は今よりずっと良い状態になっていることでしょう。

 

 学校での教育というものは、今すぐに効果を求めるものもありますが、長い先を考えて、よりよい価値観をもつ大人を育て増やしていくことを意識して取り組むべきでしょう。
 

 また、しきい値というものは、場と状況によって変化するものではありますが、その変化の領域は人によって違います。低い値で上下の変化をする人もいれば、高い値で多少の変化しかしないという人もいるでしょう。この基本ラインが高いか低いかは、その人の人格によるものだと考えられます。
 

 『人格教育のすべて』という著書の中に、以下のような内容があります。
 人格というものは、誰も見ていないと思われるときに、どのように振る舞うかを決めるものです。ある古い言い伝えに「人格とは、誰も見ていないときの、あなたの行動そのものなのである」とあります。
 

 何年か前、世界中の国々で、ある実験が行われました。それは、その国の通貨で五十ドル分のお金と持ち主の名前と電話番号を入れた財布を故意になくして、それが戻ってくるかどうかを調べたものでした。全体で五六%の財布が持ち主に戻りました。その中で特筆すべきは、ノルウェーとスウェーデンでは、全ての財布が戻ってきました。下位の国では、二十数%から三十%という国もありました。この実験の結果は、何を意味するかというと、それは文化の重要性です。ある地域や国がもつ特性(この場合は、誠実さに関する社会規範)は、そこに住む人々の人格に影響を及ぼすのです。(中略)この実験の結果に見られるように、学校、近隣、コミュニティーなどの集団規範のレベルを上げれば、そのグループの成員の人格を高めることができるかもしれません。
 

 また、人格教育の基礎は、礼儀作法の習得だと思います。エドマンド・バーク氏は、「礼儀作法は法律よりも大事なものである。それは、法律の多くは礼儀作法からなるものだからだ。礼儀作法を身につけているかどうかによって、気難しい人と和やかな人、堕落した人と清廉な人、低俗な人と高貴に人、粗暴な人と上品な人、などの違いが生じ、礼儀作法の違いによって、道徳的な人とそうでない人とに分かれるのである。」と説いています。
 

 また、ジル・ギルビー氏は、「マナーとは、何かをしてもらうことではなく、何かをしてあげるという心構えだと思っています。マナーとは、いくつかのルールを覚えることではなく、心構えの問題であることを若い世代の人たちに教えるのが人格教育のカリキュラムの目的です。私たちが、お互いを尊重しあうことができるのであれば、マナーやエチケットは、すぐに身につきます。」と人格教育のアプローチについて説明しています。
 

 人格教育においては、知性とて道徳性の両方を同じように教育することが大切です。学校においては、勤勉に学習等の活動に取り組むことと、他者を尊重して接することを目標に実践することです。知性と道徳の発達が、人間的な発達と世界をより良くするための本質なのです。

 最近の若者達において(一部の若者だが)、軽い気持ちから迷惑な写真や動画を投稿したり、限度を超えた悪ふざけのような行動が見られ、罪の意識のない問題行動が事件として報道されることがあります。まさに人格が育っていない顕著な例と言えるでしょう。きちんとした人格教育を受けていれば、あのような行動をする人間になることはなかったと思います。人格というものに関して教えられずに大人になってしまったのでしょう。道徳教育等、今後の教育における課題の一つとして考えていくべきだと思います。