<聖徳太子と玉作岡(タマツクリノオカ)>
用明天皇2年(587)、聖徳太子が物部守屋との戦いの際に戦勝祈願された神社です。
「玉作岡」に陣を敷き「我に勝ちを与えなば此れに枝葉を生ぜしめよ」と栗の白木(シラキ)を差し込まれました。すると枝が伸び若葉も生え、無事に勝利しました。太子自ら十一面観音像、多聞不動像を作り祀られ、当地に長楽寺観音堂を建立されました。
<ご由緒>
☆ 創期は垂仁天皇(スイニンテンノウ)18年秋(紀元前12年)。
古墳時代には『日本書紀』に記された「玉作部(タマツクリベ)」の居地にもなりました。
玉造部とは大和朝廷に所属し三種の神器の「曲玉(マガタマ)」などの玉製品を作る専門職の人達のことです。
☆「玉作(玉造)」タマツクリの地名の発祥とされています。
近世では、豊臣秀吉が大阪城築城により、神社社域が城内となり、大阪城の鎮守として祀られました。
<御祭神>
主神 宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)
相殿 下照姫命(シモテルヒメノミコト)
稚日女命(ワカヒルメノミコト)
月讀命(ツキヨミノミコト)
軻遇突智命(カグツチノミコト)
「難波玉造資料館(ナニワタマツクリ)」玉造稲荷神社境内。
「難波玉造資料館」入り口前。金属の勾玉(マガタマ)のアートと石碑。
「拝殿」
「御本殿」西側。
昭和20年(1945年)6月1日の大阪大空襲(第二次世界大戦)により前社殿は焼失しました。
現在の社殿は昭和29年(1954年)7月14日に再建されました。
「御朱印」
「千利休ゆかりの井戸」
「手水舎」
「伊勢参宮本街道」起点の石碑。
江戸時代に流行る庶民のお伊勢参り(おかげ参り)の西日本の拠点となったそうです。「暗峠(クラガリトウゲ)越え奈良街道」の要地だそうです。現代も受け継がれているそうです❣❣❣
拝殿東側。
末社「厳島神社」東側境内。御祭神︰市杵島姫神(イチキシマヒメノカミ)
「三笠宮寛仁殿下御参拝記念植樹の松の木」。昭和51年(1976年)5月23日に御参拝。
「末社」
「(左)新山シンヤマ稲荷神社」、寛政11年(1799年)大阪城代・松平輝和が清水谷東之町に祀ったお社を、明治40年(1907年)に当神社へ遷座合祀されました。
「(右)万慶マンケン神社」大阪城内に祀られていましたが、享保10年(1725年)京橋口定番に着任した戸田忠により当神社へ遷座されました。
御祭神︰宇迦之御魂大神(ウガノミタマオオカミ)。(両社共に)。
末社「胞衣塚大明神」(ヨナツカダイミヨウジン)。豊臣秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜・胎盤など)が祀られているそうです。
「豊臣秀頼公奉納鳥居」
慶長8年(1603年)豊臣秀頼公により寄進された石鳥居。
千利休も玉造に屋敷を構えこの地で多くの茶会を催したそうです。
「玉作岡(タマツクリノオカ)」の石碑。
「近松門左衛門の石碑」
近松門左衛門︰長州萩の人。毛利侯に仕え幼きにして肥前唐津に赴き近松寺の住僧遠室に従い出家得道する(中略)、後に還俗して氏名を近松門左衛門と改める。浄瑠璃(歌舞伎芝居)の作家。(『大阪人物誌』)
「浪速百景・玉造稲荷舞台」
下から眺める「玉造稲荷神社」
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