ヤジロウとは岩屋梓梁の事である.岩屋梓梁のことについてはこのブログで何度も話題にして来た.つい最近は岩屋梓梁が神の想念波動と同調していたということについて波動の法則の考えに基づいて論述した.

 

 

 扨て,私はこの9月にその岩屋梓梁の生まれ故郷である鹿児島県日置市伊集院町に行って,同氏の墓を訪れた.今回はその際に撮った幾つかの写真の画像を次に示し乍ら夫々説明をさせて頂くこととする.

  
    写真1 ヤジロウの墓(伝)

☝ 道路脇に「ヤジロウの墓(伝)」と案内標識がある.この(伝)は意味が実に深くて私もよく分からないが,窪田志一氏の著書にはヤジロウこと岩屋梓梁は当時の中国「明」との抗争の際に海上で捕縛され投げ出されて死んだとあるので,おそらく,後の地元民が海で没したことに対して哀れに思い,ヤジロウの生まれ故郷にお墓を置こうという配慮があったものと推察される.

  
    写真2 墓石本体

☝ 次に,墓石であるが,実に小さい.高さが40cm位だろうか.雑草に埋もれる程であった.湯呑お椀が供えてあった.岩屋梓梁本人の背丈3mとは対称的に実に背が低い墓石である.

  
    写真3  白い案内棒1

☝ 「オッドン」とはヤジロウの別名であろう.ポーロ・ヤジロウというのはヤジロウがキリスト教に一時期入信していた時の洗礼名「パウロ・デ・サンタフェ」のパウロから来ているに違いない.また,この案内棒には「天文18年(1549年)フランシスコ・ザビエルが一宇治城を訪問,…(島津)貴久と会見した時,案内役であった.後宗教上の事にてここで歿…」と書いてある.ヤジロウがザビエルを日本に招いたのは紛れもなく事実である.だが,ヤジロウが宗教上の理由でこの伊集院で没したかどうかは不明である.窪田志一氏の著書には上記でも述べたように海上で殺されたとある.

  
    写真4  白い案内棒2

☝ また,この案内棒には「伊集院町教育委員会」とある.伊集院町という極狭い限定された組織だけがこのヤジロウを慕い敬っているという状況が見て取れる.これでは不味い.私はこのヤジロウの墓の整備事業は少なくとも鹿児島県庁がやるべきことであると強く感じる.岩屋梓梁の真の業績をしっかり把握したなら,こういった小さな自治体に任せるというような軽々しい扱いをしてはならないことに誰であっても気付くだろう.鹿児島県庁というのは所詮現日本政府の傘下にあって,然程国民県民の為にならない政策を推し進める組織であるというふうに私は解釈している.県内では様々な事が今問題となっているが,最も重大な事案はこの弥次郎の墓をこのような粗末な状態にした儘,永年ほったらかしにしていることである.

  
    写真5 石碑

☝ 石碑には「殉教の伝えはいまに草むらの墓にひそめり清藤の里」とある.この文の作者は不明である.「殉教」とは自らの信仰の為に命を失ったと見做される死のこと,とされる.ヤジロウの死が信仰の為だったのかは定かではない.窪田志一氏の著書にはヤジロウ自身が信仰していたのは大日如来,即ち,天照大神であったとある.決して,キリスト教にかぶれた訳ではない.実際のところ,岩屋梓梁はザビエルと宗教論争をしてキリスト教の非を強く訴えたのである.それがザビエルの死を招き,イエズス会が易断政府に対して復讐心を燃やす切っ掛けになったのである.そのイエズス会の流れが現在の世界的DSの蛮行に繋がっていると言っても過言ではないだろう.なお,「清藤」とはこの墓がある地名のことで,弥次郎の時代にはこの地に鉄砲製造の為の鉄鋼生産工場が林立していたといったふうな事が窪田志一氏の著書には記されている.

  
    写真6 案内図

☝ ヤジロウの墓は鹿児島市中心地から約20kmの地点にある.ヤジロウの生誕地伊集院町上神殿はこの墓から8km北上したところにある.「ヤジロウは鹿児島出身の人でポルトガル商人の案内でマラッカで宣教中のフランシスコ・ザビエルと出会い,ザビエルに日本宣教を決意させる.インドのゴアで日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けザビエルを日本に案内する.天文18年(1549年)8月15日,ヤジロウの導きで鹿児島に上陸した後,ザビエルはヤジロウの紹介で領主島津貴久と会見し,宣教の許可を得る.ヤジロウの生涯については種々の伝承があり,異国で客視したという説もあるが,ここも墓所の伝説がある.」と記載されている.

 兎に角,今回墓を訪れてみて感じることはヤジロウ亡き後,戦国時代に来日していたイエズス会のルイス・フロイスらの策謀によってヤジロウこと岩屋梓梁の業績が著しく貶められたという印象である.私にとっては実に不愉快であった.ヤジロウの墓は私が残りの人生をかけて,何としても,より真面なものに再建する方向で鹿児島県庁に働きかけるなどして運動してみたい所存である.

文献
1) 窪田志一:易断政府を樹立した岩屋梓梁,岩屋梓梁と易断政府研究会,(1972).
2) 窪田志一:西郷征韓論は無かった,日本ロマン集團會発行,(1982).
3) 窪田 志一:岩屋天狗と千年王国 上下,岩屋梓梁顕彰会,(1987).