[tsl_asakura] 朝倉語録:親とケンカができること | 女性の活躍を応援!情熱社長のビジネス日記

[tsl_asakura] 朝倉語録:親とケンカができること

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(いつも温かい心遣いと気遣いのある小松原隆代さん

http://www.adv-k.co.jp/ と)





「トップセールスレディ育成塾」
受講生(卒業生含む)だけのメーリングリスト

部長の阿部
が私の言葉や我満の言葉に

自身の思いを込め定期的にメッセージを配信している。



先日は部下との会話の中で


”親と喧嘩が出来るのは親が若い証拠…”という事を私が語った。



その時に感じた思いを阿部がメーリングリストに配信した。



そのメッセージに岡山県に住む

小松原隆代さんから投稿があった。



メッセージは下記の通り…

泣けてきた。



親に対する、いろんな思いが巡った。



『親孝行にし過ぎはない。』



常に言っている言葉。

しかし、まだまだ足りない…



そう思った…



*******************



12期生 小松原 隆代 です。



いつも、みなさんのメールを拝読するだけで

自分が打つことなどないと思っておりましたが、

15日の阿部さんのコメントを拝読して・・・・・



母子喧嘩で思いを持つ方は、もし、よろしければご一読下さい。



今年の2月22日で、母が他界して、ちょうど7年になります。



65歳なのに、とても若く見え、身のこなしも、

45歳の私より軽く溌剌として、

控えめな態度をしているはずなのに、

どこに行っても、それなりに目立つ人でした。



人娘で育ったので我儘で、とても気が強く

家の中で、母の言葉は絶対でした。



養子の父も、母の母(祖母)も、母の言う事には逆らえず

私は、もの心がついてから、母に逆らった人を見たことがありませんでした。



とても器用で、何でも上手にこなし、よく動く人でした。



面倒見が良く、周りの人には、とても好かれました。



でも、家の中では、絶対的権力を持つ母が、私は、大嫌いでした。



私の進学も、結婚もすべて母が決めました。



私の思いも、父のアドバイスも、全く通らず、母の思うままでした。



だから、母とは、ひどくよく喧嘩をしました。



母が気に入った主人との結婚がうまく行かず

離婚をして4人の子供を連れて帰ったときには、



『あなたが、コロコロたくさんの子供を生むからよ!!』と

許す事のできない言葉を放ちました。



それでも、離婚後、働きながら4人の子育てをするには

実家に帰って、大嫌いな母の世話になる以外方法はありませんでした。



母が50歳、私が30歳のときでした。



それから、母の人生は変わりました。



いつも「お金がない、お金がない」が口癖になり、

孫のお稽古や学校(県外の中学に新幹線通学していましたから)の

送り迎えに、毎日を費やし、自分の好きな事は、何一つしなくなりました。



自分から、孫の世話をかって出てくれたにも関わらず、

「女中のような生活をさせられる」と、怒っては、

私と喧嘩をし、激しい言い争いをしたことも何度もあります。



いっぱい助けて貰っても、気の強い母が、私は大嫌いでした。



家族に優しい言葉が言えない母が、とても嫌でした。

『私の苦労や辛さなんか、何も解っていないくせに!!』と思っていました。



60歳半ばになって、若々しくても、少し歳を感じるようになった頃



さすがに

『たまには、一緒に旅行に行こう』

『美味しいものを食べに連れて行ってあげよう』

『きれいな洋服を買ってあげよう』



4人の子供たちが大学を卒業したら、少しは贅沢して貰おう・・・・・



せめて、お礼に・・・そう思っていた矢先でした。



とても元気だった母が、急に腹痛で倒れ、入院し

そのまま帰らない人となってしまったのです。



入院した時、「大丈夫だから、出張に行っておいで!!」と言って、

私を送りだしてくれたのに、出張先から呼び返された時には

「手遅れで、あと4~5日の命です」と宣告されたのです。



こんな時代に、腸閉塞でした。



たった数日の付きっきりの看病のとき、

食べる事も飲む事も許されず、

ただ、ベッドに横たわって点滴を受けていた母は、私に



「あなたの仕事の邪魔をしてしまって、ごめんな」と言いました。



亡くなる前日、

「銀行の手続きは、全部済んだの?」と聞きました。

相続に関する母の銀行口座の手続きのことです。



頷いた私を見て、安心したように静かに目を閉じ、

それ以来、話が出来なくなりました。



翌日、アメリカ留学中の孫が病院に到着するのを確認して

30分後に、母はその人生を閉じました。



母は、離婚して帰った私のために

子供達に莫大なお金を貯金してくれていたのです。



4人が大学に進学しても、まったく困る事のないように。



母が生まれてすぐに、祖父が戦死し、

遺族年金は、祖父の実家が全部持って行きましたから、

父親の居ない貧乏地主の一人娘は、気が強くなければ、

きっと、生きて行けなかったのでしょう。



他界して5年目に、寂しさにやっと慣れ、母の荷物を片付けた時

小さくて持てなくなった鉛筆や消しゴム、まだ書き残したノート、

子供達の使い古しの文具が、きれいに整理されてたくさん置いてあり、

それらを使っていたことを知りました。



お金に苦労して育った母は、どんな小さなものですら、何一つ、

自分の新しい物など、買うことがなかったことを思い知らされました。



これから自分の人生を愉しむという時に、

私が離婚して戻ったため、父親の居ない子供達のために

お友達と行っていた旅行は全部止め

お化粧もせず、きれいな服も買わず、美味しいものも食べに行かず

ただ、ただ、倹約して、質素に、質素に過ごしていました。



何一つ、言葉で確認する事はできなかったけれど

自分がものすごく愛されていたことを

母が亡くなって知りました。



気の強い母の愛情表現を

未熟な私は、受け取る事が出来ませんでした。



私は、たった一度も、生きている母に

本当の『ありがとう』を言うことが出来ていません。

そして、本当の『ごめんなさい』も・・・・・

たった一度も、母を旅行に連れて行ってあげることが

出来ませんでした。

当たり前のように、大嫌いなはずの母に甘えていました。



今、自分がここに在るのは、母のおかげです。

母が生んで、育んで、心を教えてくれたから、

今、たくさんの方の気持ちが有難いと思えるのです。



自分ひとりで大きくなった。

自分ひとりで学んだ。

自分ひとりで成長した。

傲慢にも、私は、そう勘違いしていました。



時々、お母様と喧嘩をなさる方・・・・・

大きくなるために、学ぶために、成功するために

その礎を造って下さったのは、お母様です。



そのお母様と喧嘩ができるのは、

あなたが成長した証だと思います。

お母様が、溌剌とお元気だからこそ、です。



喧嘩できるお母様が居て下さるのは、幸せな事です。



しっかり、喧嘩してください。



そして、喧嘩したぶん、お母様に『ありがとう』も伝えてください。



ちゃんと伝えられるとき、言葉が聞こえるときに、返事がもらえる時に

『ありがとう』と伝えてください。



私は今、毎日、仏壇の母に『ありがとう』とお礼を言っています。





ちなみに。。。。。。。

TSL36期生(?)を卒業した娘は、

やはり昔の私と同じように、度々、母親の私と喧嘩をします。



思いは、伝わらないものだなぁ・・・・・と

立場が反対になって、よ~く解る事があります。



何事も、後悔さえ残さなければ『素敵な経験』です。





長い長い文章で、本当に失礼致しました。



お時間を頂いてしまって、申し訳ありません。



もし、お読み下さった方がいらっしゃいましたら、心よりお礼申し上げます。



ありがとうございました。



                   12期生  小松原 隆代





*******************



上記のメッセージを3回読んだ。



その度涙が溢れ出る。



『親子喧嘩…』



喧嘩出来るのは親がいるから…

親が若いからこそ…





    朝倉千恵子






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